文
/ 写真 佐藤 輝
(1)マドリー(マドリード
MADRID)
(2)エスキビアス(Esquivias) エル・トボソ(El
Toboso)
カンポ・デ・クリプターナ(Campo de Criptana)
(3)カンポ・デ・クリプターナ(Campo
de Criptana)
アルガマシージャ・デ・アルバ(Argamasilla de Alba)
グラナダ(Granada)
(4)グラナダ(Granada) コルドバ(Cordoba)
(5)バルデペーニャス(Valdepenas) アルマグロ(Almagro)
プエルト・ラピセ(Puerto Lapice)
(6)コンスエグラ(Consuegra) トレド(Toledo)
(7)バルセロナ(Barcelona)
(セビージャ Sevilla)
(6)コンスエグラ(Consuegra)
トレド(Toledo)
ラ・マンチャ地方、この3年で変ったことは発電用風車が幾つも建設されたことだ。マドリーへ向かう高速N-4の東側の丘の上には30基もの発電用風車がきちんと並んでゆっくりとプロペラを回している。他にも規模の大きな施設があって、今スペインはドイツに次いで風力発電量世界2位だと言う。この現代の風車をセルバンテスは喜ぶか悲しむか。何と表現しただろう。
自動車道N-4をマドリデホス(Madridejos)で降りて西進、アルマグロから90km。丘の上にカンポ・デ・クリプターナの風車と並び知られるコンスエグラ(Consuegra)の風車が見えてくる。
麓の村を抜けて登っていくとアラブ人が建てた砦と11基の風車が建つ丘は思いのほか高く、広々としたラ・マンチャの平原を見渡すことが出来る。
マドリーへの帰路、ラ・マンチャへの別れを告げるのはいつもこの丘だ。夕陽を浴びながら心地よいラ・マンチャの風に吹かれた。
野鳥ぺルディスの鳴き声を聞きながら、ラ・マンチャ大平原の夕陽を眺める。手前の風車にはサンチョ・パンサのろば「ルシオ」の名前がついている。
周りに広がるのはサフラン畑。スペインの代表料理パエジャを黄金色に染めているのが、クロッカスの仲間のサフランの雌しべ。ここが秋にはサフラン祭りが開かれる、高価なサフランの一大産地なのだ。
突然ですが、2007年1月20日放送のテレビ番組を見て
ラ・マンチャの風車について
新聞に「スペイン」や「風車」の文字があるとパァッと目に飛び込んでくる。昨日2007年1月20日、『スペイン風車の丘へ』と書かれたテレビ番組欄を見て、夜の放送を期待した。
そのテレビ東京の番組『地球街道』「高橋克実 ラ・マンチャの男になりたい」で紹介されたスペインの風車の丘は、首都マドリー(マドリッド)から南に車で約200km行った所にある、サフランの産地としても知られるコンスエグラの風車だった。
番組を見ていてあれェ!? と、耳を疑ったことがある。
このコンスエグラの風車の映像にかぶって「この風車が、ドン・キホーテが戦いを挑んだ風車」というようなナレーションの説明があったこと。
僕は、『ドン・キホーテ(Don Quijote de la Mancha)』の物語の中でドン・キホーテが戦いを挑んだ風車は、コンスエグラからさらに東に約50km行った所にあるカンポ・デ・クリプターナ(Campo
de Criptana)の風車がモデルだというのが定説だ、と信じていたからだ。
ナレーション同様に、番組案内にもそのように明確に記されている。
これは定説を覆す世紀の新説か? 単なる大間違いか? その意図は?
1995年に松本幸四郎さん主演のミュージカル『ラ・マンチャの男』のサンチョ(サンチョ・パンサ、Sancho
Panza)として初出演することになり、役作りのために、前年94年11月から12月にかけてスペインを訪問した。ラ・マンチャ地方を中心にして、『ドン・キホーテ』の作者・セルバンテス(Cervantes)と『ラ・マンチャの男』のドン・キホーテとサンチョにかかわる土地を訪ねた。
その時、スペイン政府観光局から貰ったラ・マンチャ地方の資料には、「カンポ・デ・クリプターナ」について次のように記述されている。
「逃げるな、憶病者め」と叫びながら巨人だと思いこんでしまった風車の群に突進する主人公。あの有名なシーンはここでくりひろげられたとされています。物語には30から40の風車があったと記述されていますが、現在では10基たっていて、いかにもドン・キホーテの世界らしい趣が喜ばれています。
そして、この資料の「コンスエグラ」の項には、ドン・キホーテとのかかわりについての記述が一言もない。つまり、ドン・キホーテが戦いを挑んだ風車はカンポ・デ・クリプターナの風車だということが、スペイン政府観光局も認める定説になっているのです。
カンポ・デ・クリプターナの観光案内所のホセ・ルイスさんも「ここには『ドン・キホーテ』の物語に書かれていると同じ、30基以上の風車が当時あった」と説明してくれました。
以来2005年まで6回、ラ・マンチャ地方を旅しているが、「ドン・キホーテが戦いを挑んだ風車はコンスエグラだ」という説は1度も聞いたことがないし、資料に出合ったこともない。
去年の正月に放送された番組で、松本幸四郎さんが訪れたのもカンポ・デ・クリプターナの風車でした。
スペイン在住の知人に資料を調べてもらった。
すると、2005年の『ドン・キホーテ』出版400年を記念してスペインで出版されたドン・キホーテのガイド『RUTA DE DON
QUIJOTE』(『ドン・キホーテのルート』 ,Empresa Publica de Castilla - La Mancha出版)には、コンスエグラの風車について、11基の風車が紹介されていて、その文中で、
“Algunas fuentes situan su origen en el siglo XVI, pero parece que
no hubo molinos en Consuegra antes del XVIII.”
“(風車の)起源は16世紀に遡るとする文献もあるようだが、18世紀以前コンスエグラに風車は存在しなかったと思われる。”
と記述しているとのこと。
だとすれば、セルバンテスの『ドン・キホーテ』が出版された1605年当時、コンスエグラに風車は存在せず、モデルにもなりえない。
また、カンポ・デ・クリプターナの風車について『RUTA DE DON QUIJOTE』は、
“.... Amena porque en ella podemos situar, segun la opinion generalizada
de los cervantistas, la aventura mas popular y conocida de El Quijote
, el combate contra los gigantes que resultaron ser molinos,........”
“・・・というのもキホーテの中で最もよく知られまた人気のある冒険は巨人、実際は風車との戦いの場面は此処であるというのがセルバンテス研究家達の一般的な意見だ。”
と説明しています。
物語のモデルと主張する説は各地にあるが、「ドン・キホーテが戦いを挑んだ風車」のモデルについては新説が出る余地はなく、カンポ・デ・クリプターナだとする説が間違いなく定説になっています。
これがドン・キホーテが挑んだ風車のモデル、カンポ・デ・クリプターナの風車
日本の旅行社の観光ツアーでは、カンポ・デ・クリプターナを巡るツアーもあるけど、「ドン・キホーテ」ゆかりの地 ラ・マンチャ地方の風車へご案内
! 、とか、「ドン・キホーテゆかりのコンスエグラ」「ドン・キホーテのラ・マンチャ地方の風車」などと説明してコンスエグラに案内しているツアーが多く見られる。マドリーから古都トレドを経由して南のアンダルシア地方に向かうルート上にあるコンスエグラの方が、移動に便利だからなのかも知れないが、これでは「ドン・キホーテ」をイメージする人は、そのコンスエグラの風車が、ドン・キホーテが挑んだ風車のモデルだと思いこんでしまうだろう。思いこむのは、思いこんだの人の勝手だというだろうが・・・。
ドン・キホーテが挑んだ風車だとか、『ラ・マンチャの男』の風車だとか限定して言わないかぎり、ラ・マンチャ地方の風車として、どちらも僕は好きな風車です。でも、サンチョの心が本当に高鳴るのは、セルバンテスの小説のモデルとして定説になっているカンポ・デ・クリプターナの風車。
カンポ・デ・クリプターナの風車
ああ、今年も、あのカンポ・デ・クリプターナの丘に早く帰省して、ラ・マンチャの大平原をサンチョの気持ちで眺めたい ! !
輝 ☆彡 2007.1.21
トレド(Toledo)に行くにはN-400を通るのだが、工事中なのかコンスエグラを出て直ぐに道は封鎖されてしまった。しかもトレドへの表示が見当たらない。後ろからクラクションを鳴らされながらロータリーをぐるぐる回ることになる。こんな時が旅人には一番辛い。
夕暮れの畑中道を西に向かいぶつかったN-401を北上してトレドを目指した。昼なら気持ち良い70kmのドライブだが既に夕暮れの生活道路は帰宅時間で渋滞を繰り返す。
道が下りにかかると突然、目の前にタホ川に囲まれ照明に照らされたトレドの全景が飛び込んでくる。
高度な文化を育んだヨーロッパ有数の都市トレドは、セルバンテスが14才の1561年まで首都だった。「古都」の名にふさわしく渋く美しい街だ。その全景を堪能するためにタホ川を東に渡った丘の上のパラドールに泊まる。
ここのレストランでトレド名物野鳥のぺルディス(鶉に似たシャコと呼ばれる野鳥)のワイン煮込み料理を味わう。食前酒のフィノが美味い。ほろ酔いで眺めるトレドの夜景がまた良い。
トレドの郷土料理、野鳥ぺルディスのワイン煮込み(Perdis a la Toledana)。
翌朝のトレドは、右手のローマ橋はまだ暗い日陰にあるが、太陽の光で朝霧が吹き払われた街は神々しい姿を見せている。
寒さも忘れて、青空とタホ川に囲まれたトレドを眺めた。
タホ川の南、丘の上に立つパラドール・トレドから眺める朝のトレド。正面の建物がアルカサル、左の尖塔がカテドラル。
トレドでのもう一つの楽しみはトレド名物マサパンを買うこと。イスラムがもたらしたアーモンドの粉で作った菓子だ。数あるマサパンの中でもソコドベール広場にある老舗サント・トメの味が僕は一番好きだ。しっとりとろっとしていてうまい。サンチョ・パンサも大好きだっただろう。
サント・トメで買ったトレド名物マサパン。お先にいただきました!
そのソコドベール広場の古本市でセルバンテスは『ドン・キホーテ』の元となったアラビア語の伝記を手に入れたと書いている。
広場には物語の場面を描いたタイル画を張ったベンチが5,6個置いてある。それに腰掛けて古本市で資料を求めて歩くセルバンテスの姿を想像しながら僕は、「それにしても・・・」と思いにふけった。
ソコドベール広場でくつろぐ。セルバンテスはどんな姿で、何を思いながらこの広場に立ったのだろう、と想像する。このカメラの後ろ、道を渡った所にサント・トメの店。
セルバンテス58歳の1605年に全52章からなる『才知あふるる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ(ラ・マンチャのドン・キホーテ)』、いわゆる『ドン・キホーテ』の物語が出版されてそれが大評判となり、贋作まで出版されるほどの人気に乗って10年後の1615年には後編(74章)が出版され、全126章の長編小説が完結した。
その後編でキホーテはバルセロナの海岸バルセロネータの砂浜で銀月の騎士に敗れラ・マンチャへ連れ戻され、やがて死の床につくことになる。
それにしても・・・、『ラ・マンチャのドン・キホーテ』の物語なのにセルバンテスはなぜ、キホーテをラ・マンチャから遠く離れたバルセロナに旅をさせたのだろうか。
物語の結末を知って以来、ずうっと気に掛かっていたことだ。
市役所広場にて。1493完成のスペイン・カトリックの総本山カテドラル(大聖堂)。
その問いに誘われてマドリーから飛行機で70分、カタルーニャ地方の中心地バルセロナ(Barcrlona)に飛んだ。
『ラ・マンチャの男』 帝国劇場公演
松本幸四郎さんのドン・キホーテと佐藤
輝のサンチョ
(1)マドリー(マドリード
MADRID)
(2)エスキビアス(Esquivias) エル・トボソ(El
Toboso)
カンポ・デ・クリプターナ(Campo de Criptana)
(3)カンポ・デ・クリプターナ(Campo
de Criptana)
アルガマシージャ・デ・アルバ(Argamasilla de Alba)
グラナダ(Granada)
(4)グラナダ(Granada) コルドバ(Cordoba)
(5)バルデペーニャス(Valdepenas) アルマグロ(Almagro)
プエルト・ラピセ(Puerto Lapice)
(6)コンスエグラ(Consuegra) トレド(Toledo)
(7)バルセロナ(Barcelona)
(セビージャ Sevilla)
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