伊勢三郎義盛の『子午線の祀り』ガイド 文・写真 / 佐藤 輝 |
木下順二作『子午線の祀り』に義経の配下・伊勢三郎義盛(いせのさぶろうよしもり)役で出演の
俳優・佐藤 輝がたどった源平合戦ルート。 |
木下順二作『子午線の祀り』出演記録 |
新国立劇場公演『子午線の祀り』 佐藤 輝の伊勢三郎義盛 伊勢三郎義盛(いせのさぶろうよしもり)の旅は伊勢・鈴鹿から 「武蔵坊の弁慶も四郎兵衛忠信も、何かというとこのおれを盗賊上がりと冷やかすがな、 いかにも盗賊上がりゆえに今度の手柄よ。 伊勢の国は鈴鹿の関で朝に晩に強盗山立(やまだち)、年貢正税(しょうぜい)追い落とし、 在所在所に打ち入って日を送っておった古盗人、 謀りごと賢しき男と名を取った伊勢の三郎義盛がこのたび立てたる大手柄の一段、 先ずは聞かっせえ。」 と弁慶と四郎兵衛忠信に語り聞かせる伊勢の三郎。 義経の家来になる前は鈴鹿の関の山賊だった。 伊勢の三郎の旅はその鈴鹿の関があった三重県関町から始まる。 伊勢三郎義盛の前身については諸説あるが 「伊賀の国(三重県西部)伊賀郡三郎村で育ち、 後に加太峠を本拠として関、亀山あたりの伊勢方面で強盗や略奪を働いた野武士の頭領。 『義盛忍び歌百首』を残したと伝えられる。 伊賀・甲賀流忍術の秘伝書、万川集海には伊賀忍者の先達の一人 と書かれている。」と言う説も。 忍者の先達か、なるほど。『義盛忍び歌百首』なんて面白そうだ ! 関町は古代から鈴鹿峠を控え東海道、伊勢別街道、大和街道が分岐した交通・軍事の要衝で、 三関の一つである鈴鹿の関がおかれた所。 江戸時代の町並みが保存されている関町の中心から東海道を鈴鹿峠への上り道。 途中の旧道沿いには古い家並が続く。 伊勢の三郎はこのあたりの集落でも物取り、強盗を働いていたのだろうか。 風の中に三郎の快活な笑いと汗の臭いが混じる。 沓掛の集落から鈴鹿峠へ。 道沿いの柱に東海道五十三次の宿場名が刻まれている。 東海道五十三次が定められたのは江戸時代になってから。 伊勢の三郎の時代にはモチロン無かった。 坂は照る照る〜 鈴鹿は曇る〜 あいの土山〜 雨が降る〜 鈴鹿馬子唄が聞えて来そう。 峠道は深い木々に覆われて、当時は昼なお暗い細い山道だったに違いない。 伊勢の三郎はこんな所で旅人から金品を巻き上げていたのだろうか。 神戸・生田の森から鵯越、須磨、明石 寿永3年(1184年)2月7日、 一の谷の合戦に、鵯越より義経の奇襲を受けて、 平家は散々に敗れ、再び四国屋島へ引き退いた。 義経主従が逆落としの奇襲を仕掛けた鵯越(ひよどりごえ)はどこ? 生田の森の大将軍・平の知盛の陣はどこに・・・と、 この日、兵庫区鵯越筋や源平町など神戸市内を走り回ったが 土砂降りの雨となって、 濡れ鼠になりながら三宮、生田神社にお参りするのが精いっぱい。 鵯越はどの坂なのだろう・・・。 須磨浦公園。 東は須磨区一の谷に続く。敦盛の胴体を祀った敦盛塚がある。 ロープウェーの駅名は『ひよどりごえ』 逆落としの坂は諸説あるようだが、もしかしてこの坂が ? 上から見たら足がすくむほど垂直に見える崖だろう。 公園の直ぐ下は国道とJR線が通るだけの細い陸地。 そして平家一門が逃げ惑い、 新中納言知盛(しんちゅうなごんとももり)が息・武蔵の守知章を見殺しにして 兄・大臣殿宗盛(おおいとのむねもり)の船へ逃げ乗った瀬戸内海。 平家一門は瀬戸内海を横切り 味方・阿波の民部大夫重能(みんぶたいふしげよし)が支配する 対岸、讃岐の国(香川県)屋島へ逃れた。 須磨寺、敦盛首塚 一の谷の合戦で熊谷次郎と一騎打ちを演じた悲劇の公達・平敦盛(たいらのあつもり)の首塚。 討たれる時も愛蔵の青葉の笛を肌身離さず持っていたと伝えられる笛の名手。 水銀灯のきらめきが宇宙旅行を思わせてくれる明石海峡大橋を渡って阿波・徳島へ。 摂津の国渡部(大坂)から阿波徳島・勝浦へ 元暦二年正月十日、九郎大夫判官(たいふはうぐわん)義経は、 平家追討の為西国(さいこく)へ発向す。 元暦2年、1185年 同(おなじき)十三日九郎大夫判官(たいふはうぐわん)、淀を立て渡部へ向。 相従輩には、佐渡守義定、大内太郎維義、田代冠者信綱、畠山庄司次郎重忠、佐々木四郎高綱、 平山武者季重、三浦十郎能連、和田小太郎義盛、同三郎宗実、同四郎能胤、多々良五郎能春、 梶原平三景時、子息源太景季、同平次景高、同三郎景能、比良佐古太郎為重、 伊勢三郎義盛、庄太郎家永、同五郎弘方、椎名六郎胤平、横山太郎時兼、片岡八郎為春、鎌田藤次光政、 武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)等を始として、其(その)勢(せい)十万余騎(よき)也。 徳島市、勝浦大橋。 「常には二日の船路を義経は暴風に乗り、三刻六時間で阿波の国勝浦に吹きつけられ」 阿波の民部の子息、田内左衛門教能(でんないざえもんのりよし)の 桜葉の城はどこにあったのだろう? 大坂越から讃岐の国、屋島、志度の浦 「直ちに寝ずに南海道を讃岐山脈へ駆け登り、その東端、大坂越を八十騎、一騎も落とさず駆け越え 背後から屋島を襲って、平家を海へ追い落とす。」 徳島から吉野川を北に渡れば藍の町藍住町。 讃岐街道(南海道)を真っすぐ北に進んで阿波と讃岐の国境、讃岐山脈の東端、大坂越(峠)。 大坂越の頂きに立つ。 後ろは瀬戸内海、香川県引田町。 この下を高速道のトンネルが抜けている。 旧道はこの先の下り道、つづら折りどころか百五十折りくらいのヘアピンカーブの連続。 後で細かな地図を見て驚いたが 「バックミラーに写っていた後続車がいつの間にか消えている」 とスリラーもどきに語られる急角度に曲がりくねった坂道。 この急峻な山道を義経軍団80騎は猛スピードで駆け抜けたに違いない。 そして背後から屋島の平家を襲って、海へ追い落とした。 志度寺(しどじ) さぬき市志度にある四国86番札所。 屋島の合戦場から志度湾沿いに東へ6キロ。 この合戦で戦死した佐藤三郎兵衛継信(佐藤四郎兵衛忠信の兄)の墓碑がある。 義経が志度の浦辺の砂の上に敵の切り首ずらりと並べて首実検をしたのは・・・。 後方左奥が屋島。中央が屋島に続く半島、五剣山。 屋島から東・五剣山方向を見る。 元暦2年(1185年)2月19日、屋島の合戦があった古戦場全景。 半島の先端近くには平家の軍船が停泊した「船隠し」。 義経の弓流し、那須与一の扇の的 の逸話の場所が散在する。 伊予水軍の棟梁河野道信(みちのぶ)が源氏に通じているのを討ちに出かけた田内左衛門教能の3000騎に対して 僅か17騎で打って行った伊勢三郎。 両軍が行き会ったのは讃岐の国三木の郡琴造の宮。 伊勢三郎はここで「謀りごと賢しき男」の本領を発揮する。 屋島から南に10キロ足らずで香川県三木町がある。 今はイチゴ・女峰の特産地だが、そんな地名は見当たらない。 それで・・。 伊勢三郎は讃岐の国で何を食べたんだろう? 僕はやっぱり讃岐うどん! あの歯ごたえ、のど越しの感覚がたまらない。 瀬戸内海を横断する児島坂出ルート、瀬戸大橋の与島PA。 後ろが四国、坂出。 義経軍団はどのルートをたどって長門・壇の浦を目指したのか? 塩飽諸島に陽が落ちる。 伊勢の三郎もこんな夕陽を眺めながら物思いにふけったに違いない。 広島、安芸の宮島・厳島神社 宗盛、知盛、建礼門院徳子らの父・平清盛が熱心に帰依した、 平家一門の守護神・厳島神社。 『子午線の祀り』に登場する影身の内侍は元は厳島神社の巫女。 義経軍団は横目で通り過ぎたのだろう。 宮島の駅前と言えば名物「あなご飯」 これはいつの頃からあったのだろう? 駅弁大会でも大人気のあなご飯。 伊勢の三郎も美味いものを食べた後はいつもこんな顔に。 新中納言知盛は、長門国彦島と云所に城を構たり。是をば引島とも名付たり 。 源氏此事を聞て、備前、備中、備後、安芸、周防を馳越て、長門国にぞ著にける。 義経軍団は途中、 伊予来島の大瀬戸小瀬戸で河野水軍から調練を受けた後、 屋島の合戦から1ト月後には 周防の国都濃郡大島の津(山口県周南市大島? 大島郡周防大島町?)に船揃えして 周防の国の官人船奉行、船所の五郎正利が合流するのを待った。 一方、平知盛率いる平家は元暦2年3月23日、 長門の国(山口県)引島の本拠を引き払って 早鞆の瀬戸を挟んだ壇の浦の向かい、 豊前田野浦(北九州市門司区)に船揃えして 源氏の船軍を迎え撃つ準備を整える 。 源平決戦の海、下関・壇の浦 元暦を 語る潮の音 春の月 佐藤 輝 元暦2年3月24日 (グレゴリオ暦1185年5月2日) 平家800余艘、源氏500艘 3町余りを隔てて陣を合わせ、午の二点に矢合せする。 壇の浦 火の山公園展望台から南西方向、壇の浦を見る。 正面奥に平家が本拠とした長門の国引島(山口県下関市彦島)。 その先は響灘、玄界灘。 手前の小島が武蔵・小次郎の巌流島(船島)。 関門海峡を挟んで左が北九州市門司区。 火の山公園展望台から東方向、干珠島(左)、万珠島を見る。 西、関門海峡に陣を張る平家に対して源氏は 潮の流れを熟知した長府串崎の船頭たちを乗り組ませ 壇の浦の東、長府の沖に浮かぶ干珠島、万珠島のあたりで待機した。 赤間神宮 関門橋の西800メートル、壇の浦を望む下関市阿弥陀寺町。 古くは赤間ケ関阿弥陀寺と呼ばれ、合戦で敗れて8歳で亡くなった安徳天皇の陵、 教経、経盛、知盛、伊賀平内左衛門、飛騨三郎左衛門、越中次郎兵衛、従二位尼・平時子 などを祀る平家一門の墓がある。
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