あそびごころの 佐藤 輝の世界 エッセイ
 
 山形新聞 文化面に連載 「季語のある日々」  画像クリックで拡大画面に
俳優佐藤輝 エッセー季語のある日々 ベランダは山形に
下記青色の題名をクリックすると拡大掲載画面になります。
2006年4月4日 ベランダは山形に地続き 4月18日 サンチョの生みの親-(上)
 5月2日
サンチョの生みの親-(下) 5月16日 草笛を吹いたころ
5月30日 もみじ若葉の小倉山 6月13日 蒼き雨降る梅雨の入り
6月27日 二人のテルアキ 7月11日 星に願いを
7月25日 アクア・スプラッシュ 8月8日 夏の故郷
8月22日 夏草や・・・ 9月5日 一期一会の虫の夜 
9月19日 高きに登る 10月3日 歳時記
10月17日 美しい日本 10月31日 再生

11月14日 俳優への第一歩 
11月28日 捨てる神あれば・・・
12月12日 山茶花の散るや・・・ 12月26日 一陽来復
2007年1月9日 演劇の神様 1月23日 見果てぬ夢
2月6日 寒い朝 2月20日 暖冬に思う、寒さかな 
3月6日 ハポンのサンチョ 3月20日 卒業



 
 04年12月 余目町合併50周年記念誌掲載 「夢を育んでくれた故郷」 
     俳優佐藤輝 山形県余目町(庄内町)合併50周年記念誌

   夢を育んでくれた故郷(ふるさと)

                       佐藤 輝

              
 余目町合併50周年を心からお祝い申し上げます。その記念誌にお祝いのメッセージを掲載させて頂けることはこの上も無い喜びです。

 私は誕生から青年期にかけて、人格形成の最も大切な時期を余目町で育ち、その後の俳優人生を支える精神的な財産を故郷余目での生活から頂いた。
 合併から10年の1964年、東京オリンピックの年に俳優をこころざして上京、40年になる。今でこそ大劇場の舞台で歌い踊り演技しているが、小学校低学年の頃はそれが大の苦手で、敬老会のための踊りに出された時などは振り付けを覚えるのが嫌さに日曜日の特別練習をサボったりする程だった。
 そんな私が演劇に興味を持ちはじめたのは余目町合併と同じ頃。丁度その頃は県内の文化演劇活動が盛んになって、山形大学の演劇部も県内各地を巡演し、昼は児童生徒を対象にした演劇鑑賞、夜は町や婦人会が主催する大人向け公演を行っていた。私の兄も、現在「広報あまるめ」に「おらほのことば」を連載している樋渡浩さんたちと一緒に活動していたので、私は小学校での舞台の設営や楽屋の準備の段階から遊びに行っては見学させて貰い、小学生入場禁止の夜の公演にもこっそりもぐり込んだ。照明道具、効果音を出す擬音笛、衣装やメイクなどが珍しく、学校の舞台が別世界に見えるのが不思議だった。学生たちが楽しそうに生き生きと動き回る姿が今もはっきりと思い出される。
 余目町合併の日、1954年12月1日について小学4年生だった私の記憶は定かではないが、しぐれ模様の空に花火が打上げられる中を小学校まで旗行列をしたあと、紅白の饅頭を貰って雨上がりの道を晴れやかな気持ちで帰ったように記憶している。
 合併によって町内に小学校が6校も出来た。自分の生活エリアの感覚はグーンと広がり世界が大きくなったような喜びを感じた。それは地域が広がっただけでなく、自分の同世代、横並びの仲間が増えることでもあった。
 そのことを実感したのは6校の5、6年生が一堂に会して各校が演劇を発表した連合学芸会。
 遠足さながらに埃立つ砂利道を下駄履きで会場の小学校に行き、そこで初めて他校の同学年生たちを知り、その舞台を楽しんだ。
 常万小学校の体操場で行われた6年生の時の連合学芸会は、後に私の人生を決定する大事なものとなった。
 創作教育に熱心だった担任の菅原清先生はこの年の連合学芸会に向けて木下順二作『彦市ばなし』を選び、3人しかいない登場人物の中の天狗の息子役に僕を選んでくれた。放課後の放送室などで稽古をした。すでに芝居作りの楽しさを垣間見た私は稽古が面白くて、もうサボるようなことはしなくなっていた。
 連合学芸会当日、舞台は「えいっ、やぁ。えいっ、やぁ」天狗の息子に扮した私のセリフで幕が開いた。彦市、殿様を含めて出演者3人の息もピッタリだった。
 終演の幕が閉じてホッとした耳に今迄聞いたことも無い程の大きな拍手が聞こえて来た。再度幕が開くと客席の子供たちが満面の笑顔を舞台に向けて思いッ切り拍手しているのが見えた。僕たちの芝居を本気で喜んでくれている。その熱い興奮に圧倒された。初めて体験した大きな感動だった。人前で演技することの喜びを知った。嬉しかった。
 この時に客席から頂いた感動が後々高校卒業後の進路を決める際に「人に喜んで貰える仕事をしたい。人と共に喜べる仕事をしたい。自分に一番合っている仕事」として俳優の道を選ぶ大きな理由となった。
 演劇への夢を余目町誕生から10年間の故郷が育んでくれた。そしてその後40年の俳優としての歩みを支え役作りの元となっているいるのは、私の感性を育ててくれた余目町を包む自然風土と文化、私を応援して下さった余目町の多くの皆さんとの出会いだ。私は余目町の歴史と共に俳優の道を歩んで来たことになる。
 余目町は庄内平野の真ん中で一見何の個性も無い町のように見えるが、私たちはいつも鳥海、月山、出羽丘陵の山並みを眺め、日本海の海鳴りを聞いている。庄内全体を感じながら生きている。文化的には城下町鶴岡と港町酒田から刺激を受け、そこから良いものを選び取って両方の良さを合わせ持っている。余目はこの恵まれた自然環境と歴史に培われた目には見えないが素晴らしい精神文化を持っている。これこそが余目町の個性だと思う。
 今度、余目町と立川町との合併によって新『庄内町』が誕生すると言う。庄内平野の中心にふさわしい良い町名だ。将来は更に発展して当然『大庄内市』としてまとまるだろうが、この庄内文化圏の要となるのは新『庄内町』であることは間違い無い。
 素晴しい環境の中で生きている喜びを地域の中だけで完結してしまうこと無く、より広く多くの人たちと共感出来るエネルギーを持って発展して欲しい。50年後の故郷も是非見たいものだと思っている。

                             2004.12.1

  故郷・山形県東田川郡余目町合併50周年記念誌『大きな大地に、大きな想い』に寄稿  
 ゆうing 99年7月号 No.149掲載 「庄内平野の風土と人が感性を育んだ」   

俳優佐藤輝 エッセイ庄内平野の風土と人が感性を育んだ
 庄内平野の風土と人が感性を育んだ
                      佐藤 輝 

 私のふるさとは山形県北西部、日本海に面した庄内平野。北に出羽富士・鳥海山が秀麗な姿でそびえ、南東には霊山・月山が出羽丘陵を従えて平野を抱きかかえている。その真ん中あたり、余目(あまるめ)町に、電線をまたいで歩くほどの大雪の朝、生を受けた。吹雪で到着が遅れた産婆さんを待ちきれずに、ひとりで生まれ出たらしい。
 豊かな自然と美しい風土、うまい米とうまい酒、長い歴史の中で本物を磨いた独特の庄内文化圏。ここでの生活が、私の感性と役作りの基になっている。
 生家の裏にサワラの大木があって、時々てっぺんの枝に腰掛けては平野を眺めた。上野行の汽車の煙が南に向かい、陽が西に沈む頃まで、山の先の、海の先の世界をぼんやり想い描いていた。
 夏休みには兄達と砂丘の漁村、十里塚にキャンプに行くのが恒例だった。熱く日に灼けた大粒の砂は足の裏に心地よく、海は澄んでいた。地引網を手伝ったお礼に小鯵を沢山分けてもらい、すぐに竹に挟み、砂浜で焼いて食べたあの旨さは忘れられない。
 日本海に沈む庄内浜の夕陽は息をのむほど美しい。黄金を溶かしたように空を染め海を染めた茜色は、見る者の心を一瞬別世界に誘い、紫から群青へと変わってゆく。
 江戸時代に北前船の港として活気に満ちた酒田へ30分の汽車通学。高校に入ってやっと自由に好きな映画と演劇が見られるようになり、1年に2つか3つ来る東京の劇団の公演を心待ちにしていた。あるとき終演後の合評会に出て時間の経つのも忘れ、終列車に乗り遅れてしまったことがある。途方に暮れていると、酒田終点の列車から降りてきた夫婦が心配して声を掛けてくれた。事情を話すと自分の家に泊るよう勧めてくれ、翌朝には弁当まで持たせてくれた。このご夫婦に見られる酒田の大らかな気風が、私の青春時代を支えてくれた。
 大人になってから知った味だが、酒田駅前にあるホテルのレストランで出してくれるフランス風郷土料理には庄内浜のエキスがたっぷり入っている。特に鳥海山の雪解け水が伏流水となって日本海に湧き出す所で獲れる夏の岩牡蠣は、それを食べるだけのためにでもふるさとへ帰りたいと思う滋味豊かな味だ。
 山形新幹線が新庄まで延び、山形自動車道も酒田まで直結する。北前船に代わる平成の新ルートだ。外との交流、そしてこれまで育んできた本物を更に磨いていく事により、北前船の時代にも増す大らかなエネルギーに溢れた新しい庄内文化が花開くだろうと大いに期待している。
 実は、私にはもうひとつふるさとがある。それはスペイン、ラ・マンチャ。それについては、また別の機会に…。

  ゆうing 99年7月号 No.149掲載 
 HOUSING & LIVING 98年1月号 No.339掲載 サンチョ 故郷へ帰る
俳優佐藤輝 エッセー ミュージカル『ラ・マンチャの男』サンチョ故郷へ帰る
Copyright©2003-2022 TERUTSUU All Rights Reserved 記事・写真の無断転載を禁じます。