■佐藤輝のエッセイ「季語のある日々」
2006年4月から2007年3月まで1年間にわたって山形新聞に連載。
2006年4月4日 ベランダは山形に地続き 4月18日
サンチョの生みの親-(上) 5月2日 サンチョの生みの親-(下)
5月16日 草笛を吹いたころ 5月30日
もみじ若葉の小倉山 6月13日
蒼き雨降る梅雨の入り
6月27日 二人のテルアキ 7月11日
星に願いを 7月25日
アクア・スプラッシュ 8月8日
夏の故郷
8月22日 夏草や・・・ 9月5日
一期一会の虫の夜 9月19日 高きに登る 10月3日
歳時記 10月17日
美しい日本
10月31日 再生 11月14日
俳優への第一歩 11月28日 捨てる神あれば・・・ 12月12日
山茶花の散るや・・・
12月26日 一陽来復
2007年1月9日 演劇の神様 1月23日
見果てぬ夢 2月6日
寒い朝 2月20日 暖冬に思う、寒さかな
3月6日 ハポンのサンチョ 3月20日
卒業
2006.4.18掲載 「サンチョの生みの親-上」 |
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サンチョの生みの親 -上
佐藤 輝
2人の捕手、マリナーズの城島健司、ヤクルトの古田敦也の活躍が今年は楽しみの一つだ。
僕は95年以来、松本幸四郎さん主演のミュージカル「ラ・マンチャの男」に、サンチョ役で449回出演している。
サンチョは、野球で言えば城島、古田のような立場。多くのきっかけを担当し、作品のすべてを把握した上で自分の演技をする。俳優として極めて高度な感性と力を要求される難しい役だが、幸四郎さん演ずるドン・キホーテとコンビを組んで冒険の旅をし、松たか子さんのアルドンサ相手に歌を歌うサンチョは、三枚目俳優なら誰もがあこがれる大役だ。
佐藤サンチョの生みの親は、当時の東宝演劇部プロデューサー・佐藤勉さん。この人こそ僕の俳優人生で一番の恩人だ。
親しみと尊敬を込めてみんなに「べんさん」と呼ばれたその勉さんが先月、桜の開花宣言が出された翌日に、87歳で亡くなった。
楽屋食堂のメニューを見て「冷奴か、これだ」と大声で言い、注文するのかと思っていると、すぐに横の公衆電話から自宅に「今夜は冷奴だ」と電話をした、などユーモラスな逸話の持ち主、勉さん。「マイ・フェア・レディ」「屋根の上のヴァイオリン弾き」「ラ・マンチャの男」など東宝のドル箱作品のほとんど、数えきれないほどの舞台を作り一時代を築いた名プロデューサーで、97年に引退された。
初めてお目にかかったのは91年、森繁久彌さん出演中の帝国劇場「蘆火野」の楽屋。
森繁さんを紹介して下さったのは、後に中国・長春市に残留孤児を育てた養父母への感謝をこめた専用アパートを個人で寄付したことで知られる笠貫尚章さん。笠貫さんは終戦で中国から日本に帰る引き揚げ団の幹部として森繁さんと苦労を共にし、それ以来個人的に親しい付き合いをしてきた方だ。
79年に渋谷ジァン・ジァンで僕が演じた、中国生まれのロバ一文字号の生涯を描いた舞台「ろば」を観て感動した笠貫さんが、それから11年もたったころ、森繁さんもそろそろ現役引退だろうからと前置きして「今までは誰に頼まれても、森繁さんに芸能界の人を紹介したことはなかった。頼まれたわけではないが、あなたをぜひとも紹介したい」と連れて行ってくださった。
初対面の森繁さんはすぐに佐藤勉プロデューサーを呼んで僕を推薦して下さった。勉さんは白髪の四角い顔を向けて僕の顔をじいっと見た。この方が、「一喝された人も多い」と噂に聞く佐藤勉さんかと思うと身が引き締まった。
間もなく勉さんから連絡があり、92年正月の帝劇公演、森繁久彌主演「明治太平記」に出演することが決まった。稽古に入る前の11月3日、森繁さんは現代劇俳優として初めて文化勲章を受章された。祝賀パーティーが盛大に開かれ、僕も笠貫さんと共に出席した。その会の進行をまとめる中心に佐藤勉さんの姿があった。
今生にまたと握手の花見かな 輝
写真
ミュージカル「ラ・マンチャの男」ドン・キホーテ役の松本幸四郎さん(左)とサンチョの筆者(写真提供・東宝演劇部)
2006.04.18掲載
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