俳優佐藤輝エッセイ「季語のある日々」11.14俳優への第一歩
佐藤輝のエッセイ「季語のある日々」
2006年4月から2007年3月まで1年間にわたって山形新聞に連載。

2006年4月4日 ベランダは山形に地続き 4月18日 サンチョの生みの親-(上) 5月2日 サンチョの生みの親-(下)
5月16日 草笛を吹いたころ 5月30日 もみじ若葉の小倉山 6月13日 蒼き雨降る梅雨の入り
6月27日 二人のテルアキ 7月11日 星に願いを 7月25日 アクア・スプラッシュ 8月8日 夏の故郷
8月22日 夏草や・・・ 9月5日 一期一会の虫の夜 9月19日 高きに登る 10月3日 歳時記 10月17日 美しい日本 
10月31日 再生 11月14日 俳優への第一歩 11月28日 捨てる神あれば・・・ 12月12日 山茶花の散るや・・・
12月26日 一陽来復 
2007年1月9日 演劇の神様 1月23日 見果てぬ夢 2月6日 寒い朝 2月20日 暖冬に思う、寒さかな
          
3月6日 ハポンのサンチョ 3月20日 卒業
 
  
  
  2006.11.14掲載 俳優への第一歩
  
 俳優への第一歩

                    佐藤 輝

 11月は文化の季節。美術展、文化祭やコンサート、学芸会のポスターを街角で目にする。公演の案内もたくさん届いた。
 僕を俳優の道に導いたのは、小学校6年生の時に、学芸会でもらった大きな拍手だった。
 実は小学校に入ったころ、僕は人前に出て踊ったりするのが苦手で、敬老会の遊戯に出された時などは、日曜練習をサボったりした。
 そんな僕が演劇に興味を持ったのは4、5年後のこと。戦後の復興期で文化活動が盛んになり、山形大学の演劇部も県内各地の学校などで公演をしていた。兄が演劇部にいたので、僕は余目小学校での舞台や照明の仕込み、楽屋の準備の段階から遊びに行っては見学させてもらった。出演者も裏方も生き生きと準備している姿が、舞台の面白さ以上に、今もくっきりと思い出される。埃っぽい体操場が、照明と演技によって別の世界を見せてくれる、そんな演劇作りの楽しさを知った。
 そのころ余目町では、小学校全6校の6年生が一堂に集まって、各校が作品を発表する「連合学芸会」があった。創作教育に熱心で、毎年の学芸会に面白い舞台を作っていたクラス担任の菅原清先生は、僕が6年の年、連合学芸会向けに木下順二作「彦市ばなし」を選び、彦市、殿様、天狗の子と3つしか無い登場人物の、天狗の子役に僕を選んでくれた。彦市にだまされて隠れみのを取られた天狗の子が、彦市に仕返しをする物語。3人は楽しみながら、放課後遅くまで稽古(けいこ)をした。
 当日、舞台は天狗の子のセリフで幕が開いた。3人の息もピッタリで、順調に進んだ。
 幕が閉まってホッとした僕の耳に、今まで聞いたことの無い、熱く大きな拍手が聞こえて来た。再度幕が開くと客席の子供たちが興奮した笑顔で拍手しているのが見えた。みんなが僕たちの芝居をこんなに喜んでくれている。初めて体験した大きな感動だった。人前で演技し、喜んでもらえる喜びを知った。
 高校2年で卒業後の進路を決めるころ、身長156センチの僕は、小柄ゆえにいじめられた経験もあって、身長コンプレックスに悩み、この悩みを克服して、人と共に対等に生きていける生き方、仕事って何だろうと真剣に考えた。その時に思い出したのが、天狗の子でもらった大きな拍手だった。あれは天狗の子への共感の拍手であり、その役は僕が小柄だったからこそやらせてもらえた。つまりは、小柄な自分を生かすことができて、他人が僕の存在に共感し拍手してくれる世界がある、ということだ。しかもそれは自分が好きで楽しめる仕事。「演出家や監督にはひどいことを言われるし、収入も不安定だ」と反対する両親を一週間かけて説得し、僕は進路調査に「俳優をめざして、劇団の養成所に入る」と書いた。
 さて、酒田市出身の歌手白崎映美さんから、初ソロライブの案内が届いた。音楽バンド「上々颱風(シャンシャンタイフーン)」のボーカルとして活躍し作詞作曲もする白崎さんは、僕が今一番、自信をもって推薦している歌手。歌がうまく、故郷の風土を感じさせる伸びやかな姿は歌姫と呼ぶにふさわしい華がある。山形の人たちに広く知ってもらいたい、山形を代表する歌手だ。11月16日夜にはそのライブを楽しみに、東京・文京区の三百人劇場に出かける。

 ゆく秋やななめに長き妻の影  輝

俳優佐藤輝 上野 東京都美術館
写真タイトル
上野・東京都美術館前の筆者

               2006.11.14 掲載分

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