■佐藤輝のエッセイ「季語のある日々」
2006年4月から2007年3月まで1年間にわたって山形新聞に連載。
2006年4月4日 ベランダは山形に地続き 4月18日
サンチョの生みの親-(上) 5月2日
サンチョの生みの親-(下)
5月16日 草笛を吹いたころ 5月30日
もみじ若葉の小倉山 6月13日
蒼き雨降る梅雨の入り
6月27日 二人のテルアキ 7月11日
星に願いを 7月25日
アクア・スプラッシュ 8月8日
夏の故郷
8月22日 夏草や・・・ 9月5日
一期一会の虫の夜 9月19日 高きに登る 10月3日
歳時記 10月17日
美しい日本
10月31日 再生 11月14日
俳優への第一歩 11月28日 捨てる神あれば・・・ 12月12日
山茶花の散るや・・・
12月26日 一陽来復
2007年1月9日 演劇の神様 1月23日
見果てぬ夢 2月6日
寒い朝 2月20日 暖冬に思う、寒さかな
3月6日 ハポンのサンチョ 3月20日
卒業
2006.6.27掲載 「二人のテルアキ」 |
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二人のテルアキ
佐藤 輝
6月は、好物の桜桃(さくらんぼ)の月。思い出も多い月だ。
生まれて初めて生のミュージカルに出合ったのも、松本幸四郎さんを初めて見たのも、初対面の挨拶をしたのも、初めて舞台でコンビを組んだのも、6月のことだった。
1966年。僕がいた劇団に講師として、当時トップ振付家だった関矢幸雄さんがやってきた。彼は「タブー」などのレコードをかけて、音楽に合わせて自由に動き回れと言う。僕には苦手なことだったが、終わると関矢さんは「キミ、中々面白いよ」。そしてミュージカル「心を繋ぐ六ペンス」の稽古場見学に誘ってくれた。主演は何と歌舞伎俳優の市川染五郎、今の幸四郎さん! 6月18日のことだった。初めて観るミュージカルは躍動感にあふれて楽しく、公演も観た。ストライプの上着にカンカン帽をかぶって歌い踊る歌舞伎俳優にはただただ感心した。が、僕は外国人を演ずるのが苦手、器用な芸もできない、ミュージカルには向いていないと思った。
それが何と、95年のミュージカル「ラ・マンチャの男」にサンチョ役で出演が決まり、94年6月24日、歌舞伎座の楽屋を訪ねて、幸四郎さんと初対面の挨拶をすることになった。
その日、山形から届いたばかりの桜桃があったので、手土産に持参した。幸四郎さんは破顔一笑「大好物で!」と、喜んでくれた。
幸四郎さんは紀子夫人に「輝さんはエディ・ロールにそっくりで、初めて会ったような気がしないね」とおっしゃった。エディさんは69年の「ラ・マンチャの男」日本初演の演出振付。70年に幸四郎さんがブロードウェイの「ラ・マンチャの男」に3カ月間主演した時にはサンチョの代役で出演、幸四郎さんが「エディーさんのこのサンチョが最高のサンチョだった」と語る人だった。
幸四郎さんはそれまでにドン・キホーテを六600回以上演じている。相棒サンチョの僕はゼロ。演技力で追いつける差ではない。悩んだ僕は「サンチョの住んだ世界を実感するのが一番だ」と一人でスペインに向かった。
物語でキホーテが戦いを挑んだ風車はラ・マンチャ地方のカンポ・デ・クリプターナの風車。僕はこの丘から乾いた大地を眺めながらサンチョの世界を体いっぱいに感じた。
95年6月、サンチョ初出演の楽屋廊下。共演の松たか子さんを訪ねてきたテレビスタッフが僕を見かけて「おう! テルアキ!」と呼びかけてきた。僕は以前は本名の佐藤輝昭で出演していた。松さんはそのことを幸四郎さんに話したらしい。
翌日の開演前、幸四郎さんが「輝さんの本名は、テルアキさんですか?」と尋ねてきた。うなずくと、嬉しそうに「僕の本名もテルアキです・・前世では兄弟だったかも知れませんね」。絶句した。テルアキ二人が同じ舞台でキホーテとサンチョを演じている。何と言う奇遇! 以来、桜桃は二人のテルアキの記念碑となり、東根市の平山果樹園が心を込めて育てた桜桃が毎年幸四郎さんの楽屋に届けられている。
いざ舞台ひらりはねたる夏暖簾 輝
写真タイトル
カンポ・デ・クリプターナの風車(筆者撮影)
2006.6.27掲載分
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