■佐藤輝のエッセイ「季語のある日々」
2006年4月から2007年3月まで1年間にわたって山形新聞に連載。
2006年4月4日 ベランダは山形に地続き 4月18日
サンチョの生みの親-(上) 5月2日
サンチョの生みの親-(下)
5月16日 草笛を吹いたころ 5月30日 もみじ若葉の小倉山 6月13日
蒼き雨降る梅雨の入り
6月27日 二人のテルアキ 7月11日
星に願いを 7月25日 アクア・スプラッシュ 8月8日
夏の故郷
8月22日 夏草や・・・ 9月5日
一期一会の虫の夜 9月19日 高きに登る 10月3日
歳時記 10月17日
美しい日本
10月31日 再生 11月14日
俳優への第一歩 11月28日 捨てる神あれば・・・ 12月12日
山茶花の散るや・・・
12月26日 一陽来復
2007年1月9日 演劇の神様 1月23日
見果てぬ夢 2月6日
寒い朝 2月20日 暖冬に思う、寒さかな
3月6日 ハポンのサンチョ 3月20日
卒業
2006.5.16 掲載「草笛を吹いたころ」 |
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草笛を吹いたころ
佐藤 輝
今回、この原稿を、ゴールデンウイークのにぎわいが一段落して静かになった京都で書いている。
連休中は、生家の法事でこの季節久しぶりに帰省。桜はほぼ終わっていたが、新緑萌える中に、リンゴにサクランボ、桃、梨と、色とりどりに一斉に花咲いたパステルカラーの山形が僕を迎え、心を浮き立たせてくれた。31年前に羽黒山三神合祭殿で結婚式を挙げたのは丁度この時期。その折に天童市の高擶駅近くにある花嫁の実家を訪ねた時も、白いリンゴの花が満開で、その前で写真を撮ったことなどを思い出しながら、高速道路を月山へと近づいて驚いた。今年の残雪のなんと多いこと。しばし、白く輝くなだらかな稜線の美しさに見とれながらも、去年暮れからの豪雪の苦労を思った。
庄内平野は、田植えに備えて水を張った田んぼも多く、その水面に、「種まき爺さん」が姿を現した鳥海山が、逆さに映っている。
その連休帰省を間にはさみ、京都・太秦(うずまさ)で、テレビ「水戸黄門」の仕事。去年10月に、やはり「水戸黄門」で九州・八代の老舗まんじゅう屋の番頭役で来て以来、半年ぶりの京都になる。
去年撮影した分は正月1回目として放送された。すぐその後で、10年近く前、佐野浅夫さんの黄門さまの時に、水争いの農民役で出演した番組も再放送されたらしく、今年は「水戸黄門」出演のあなたを2度も見た、との感想を知人からもらった。
自分が知らない間に、もっと昔の出演ドラマが再放送されることもあって、見知らぬ人から突然「昨日、テレビに出ていましたね」などといわれたりする。あまりに突然の古い話に、題名を聞いても、どんな内容でどんな役を演じたのかをとっさに思い出せない時は、困ってしまう。
今は映画も含めて過去の映像作品が、ビデオやDVDとして日常的に見られている。26年前に出演した「仮面ライダー・スーパー1(ワン)」などは、当時テレビで見た少年少女たちが今では親となって、その子供たちと一緒にDVDで楽しんでいると聞く。とすると、それに出ている僕は、死んだ後も映像として、ひょっとしたら永久に残ることになる。
その点舞台は、たとえ1カ月40回、同じ公演をしたとしても、観客にとっては、限られたその日その会場で観(み)た公演が唯一の作品であり、幕が閉じると同時に終わってしまう。巻き戻して再生することはできない。というと、映像は永久だが、舞台は1回こっきりのはかないものだということになってしまう。
けれども、深い感動を呼ぶすぐれた舞台は、幕が下りた時から、観客の心の中で何度も再生される。「あの舞台を観て、僕は仕事を変えました」という話を何人もの人から聞いたが、それは生の作品が観た人の生き方を変えさせるほどのエネルギーを持っているということだ。僕はそのエネルギーを、映像の「永久」に匹敵する「永遠」と思っている。
草笛や白く暮れ行く月の山 輝
写真タイトル
庄内平野・五月田に陽が沈む(筆者撮影)
2006.5.16掲載
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