俳優佐藤輝エッセイ「季語のある日々」5.2サンチョの生みの親-下
佐藤輝のエッセイ「季語のある日々」
2006年4月から2007年3月まで1年間にわたって山形新聞に連載。

2006年4月4日 ベランダは山形に地続き 4月18日 サンチョの生みの親-(上) 5月2日 サンチョの生みの親-(下)
5月16日 草笛を吹いたころ 5月30日 もみじ若葉の小倉山 6月13日 蒼き雨降る梅雨の入り
6月27日 二人のテルアキ 7月11日 星に願いを 7月25日 アクア・スプラッシュ 8月8日 夏の故郷
8月22日 夏草や・・・ 9月5日 一期一会の虫の夜 9月19日 高きに登る 10月3日 歳時記 10月17日 美しい日本 
10月31日 再生 11月14日 俳優への第一歩 11月28日 捨てる神あれば・・・ 12月12日 山茶花の散るや・・・
12月26日 一陽来復 
2007年1月9日 演劇の神様 1月23日 見果てぬ夢 2月6日 寒い朝 2月20日 暖冬に思う、寒さかな
                   
3月6日 ハポンのサンチョ 3月20日 卒業
  

      2006.5.2掲載 「サンチョの生みの親-下」

 サンチョの生みの親 -下    

                    佐藤 輝

 山形は、花が一斉に咲いて、田圃には水がはられ、そろそろ田植えも始まるころだろう。
 僕をミュージカル「ラ・マンチャの男」の大役サンチョにした生みの親は、森繁久彌さんが紹介してくれた東宝の大プロデューサー、佐藤勉さん。その「べんさん」が、今年の花を楽しむことなく、87歳で亡くなった。

 僕は40歳になった時、「60、70になっても元気で舞台に立ちたい。そのためには今の体力を長く保とう」と思いたって、ジャズダンスを基礎からレッスンし直した。
 それを知った勉さんが、来年(1993年)の「マイ・フェア・レディ」に出なさい、と言ってくれた。宣伝ポスターには破格の扱いで僕の写真が載った。「運が良けりゃ」をトリオで歌うジェイミーを帝劇で演じ、これが僕の外国ミュージカル初出演となった。
 公演が終ると勉さんから、来年(94年)森繁さんがやってきた「屋根の上のヴァイオリン弾き」を西田敏行さんでやるから、乞食のナフム役で出て、と話が来た。
 その稽古の最中に、勉さんが僕と稽古ピアノの中條さんを別室に連れ出した。突然楽譜を開いてそれを歌えと言う。初見だが、歌いやすいように伴奏してくれたので、なんとか歌いきることができた。すると勉さんは楽譜の一番高い音を指して「この音もちゃんと出ていたな?」と中條さんに確認した。「ええ、十分に」、中條さんが答えると勉さんは「よしッ! 」とうなずいた。勉さんが僕をサンチョに決めた瞬間だった。僕は知らなかったのだが、その歌は「ラ・マンチャの男」でサンチョがソロで歌う「本当に好きだ」だったのだ。
 翌95年6月にサンチョ初出演。初日を前にして舞台稽古の楽屋に入ると、勉さんが「サンチョの靴を持ってすぐに来い」と呼んでいる。行くと、勉さんは舞台に吊り下げた細く長い急角度の空中階段を指して「その靴をはいて階段を下りる練習を何度もやってみろ。いいか、最後のカーテンコールで階段を下りる時、誰が何と要求しても、無理をして急ぐことは絶対するな! 君が怪我でもしたらこの舞台が続けられなくなるのだから。わかったな? 」と強く念を押した。いかにサンチョを大事に思っているかが伝わってきた。
 サンチョは去年で449回。評判の作品でありながら、僕が初出演した公演が6年ぶりだったことなどを思い返すと、勉さんが「マイ・フェア・レディ」出演の話をくれた時、既に僕をサンチョにする道筋が出来上がっていたように思われる。森繁さんの紹介で初めて会った時、「サンチョをやれる俳優をようやく見つけた、こいつを育てよう!」と決めたのかも知れない。ミュージカルは歌、踊り、演技を必要とされるから出演者の顔ぶれも限られ、世界がせまい。そこに大役で突然出演させたらまわりからつぶされるに決まっている。そうならないように、勉さんは数年をかけて僕をサンチョに育ててくれたのだ。
 大プロデューサーの時代が終わった。

  高曇り鳥海五月田に溶けて  輝

俳優佐藤輝 ミュージカル『ラ・マンチャの男』サンチョ
写真
ミュージカル「ラ・マンチャの男」アルドンサ役の松たか子さん(左)とサンチョ役の筆者(写真提供・東宝演劇部)

               2006.5.2掲載分

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