■佐藤輝のエッセイ「季語のある日々」
2006年4月から2007年3月まで1年間にわたって山形新聞に連載。
2006年4月4日 ベランダは山形に地続き 4月18日
サンチョの生みの親-(上) 5月2日
サンチョの生みの親-(下)
5月16日 草笛を吹いたころ 5月30日
もみじ若葉の小倉山 6月13日
蒼き雨降る梅雨の入り
6月27日 二人のテルアキ 7月11日
星に願いを 7月25日
アクア・スプラッシュ 8月8日
夏の故郷
8月22日 夏草や・・・ 9月5日
一期一会の虫の夜 9月19日 高きに登る 10月3日
歳時記 10月17日
美しい日本
10月31日 再生 11月14日
俳優への第一歩 11月28日 捨てる神あれば・・・ 12月12日
山茶花の散るや・・・
12月26日 一陽来復
2007年1月9日 演劇の神様 1月23日
見果てぬ夢 2月6日
寒い朝 2月20日 暖冬に思う、寒さかな
3月6日 ハポンのサンチョ 3月20日
卒業
2006.8.8掲載 「夏の故郷」 |
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夏の故郷
佐藤 輝
これからが「夏の故郷」本番だというのに、暦ではもう立秋。
55、6年前、まだ小学校に入る前の僕は、父が勤めていた中学校の海浜学校に、陣中見舞いと称して遊びに行くのが恒例だった。母に手を引かれて歩いた、三瀬(鶴岡市)の駅から由良海岸までの長い道を思いだす。かなかな蝉の時雨の中を、合歓(ねむ)の木に咲いた薄紅色の花を見上げながら歩いた。歩くのがいやになったころ、急に視界が開け、坂の上から日本海と白山島が見えた時には歓声を上げた。潮の香が気持ち良かった。
小学校に入ってからは、大学生の兄たちが村の中学生を引率してキャンプをしている十里塚(酒田市)に行くようになった。中学校から借りたテントは、中心にポールを立てた円すい形のインディアン形。食事はおかゆにみそ汁、ご馳走はみそと漬物ていど。それでも楽しくて、熱く焼けた砂丘をものともせずはだしで走って越えた。日本海の澄んだ青さが体にしみるように美しかった。あの海の色は、今も僕の瞼にくっきりと焼き付いている。
先月、義父が倒れて入院したとの連絡を受けて夏の故郷にかけつけた。義父は、顔の全面を覆う透明プラスチックのマスクにポンプで酸素が送られ、強制的に呼吸を続けていた。心臓も弱っていて危ないところを、腕が痙攣(けいれん)するほどマッサージをつづけた医療チームの努力で、その後は快方に向かっている。
地域の人たちと卓球、詩吟、ゲートボールを楽しんでいたものの、長い間、肺気腫の持病に悩まされていた義父は、自宅近くの医院に定期的に通っていたが、投薬以上の処置は施されていなかったと聞く。最近は、少し歩いても肩で息をし鼻水を流すほどになっていたので、何とか発作を軽くする治療がないものかと思い、昨年、県立病院にかかることを強く勧め、本人も説得に応じて病院に行った。
医師は丁寧に診てくれて、翌週に検査をすることになった。ところが翌週診た医師は、検査のことよりも県が進めている「かかりつけ医」について語気荒く説明し「肺気腫なんて治らない病気だ、何でこんな所に来るんだ!
」と、本人が委縮するほど叱(しか)りつけたという。以来、義父は医療不信に陥った。その時にしっかりした対応がなされていたら、今回の主治医が「これほど心臓が悪くなるまで、いままで何をしていたのだろう。酸素吸入なんかしていなかったのかな?」と感想をもらすことはなかっただろう。県立病院での対応と「かかりつけ医」の処置が悔やまれる。
「かかりつけ医」システムの説明は最初の時にできたことだし、それを理解していても、他に頼らざるを得ない現実があった。すがる思いで来た患者に望みを失わせ、病気を悪化させるようなことは、医療現場で絶対に許されることではない。システムを強く進めるからには「かかりつけ医」としてのレベルをチェックし情報を患者に提供する体制が必要だ。
現在入院中の病院は、患者と家族への対応がきめ細かく迅速で、システムがきちんと機能している。義父は命拾いをした。
義父には退院後も、自宅で気持ち良く暮らしてもらいたいと願っている。僕たち夫婦が故郷の家として帰れる大切な場所なのだから。
あるじ無き家守りおり夏こたつ 輝
写真タイトル
はるかに続くスペイン、アンダルシアのひまわり畑(筆者撮影)
2006.8.8掲載分
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