さようなら、観世榮夫さん
2007年6月、昨10日にお通夜、今日11日は葬儀告別式が目黒区にある碑文谷会館で行われて、僕も最後のお別れに参列した。
焼香しながら、お棺に花を入れながら、この34年間の「栄夫ちゃん」との思い出が頭をよぎった。
『天保十二年のシェイクスピア』公演中、急に大雪となって自動車が走れなくなった日、箱根にゴルフに行っていた観世さんが開演に間に合わず、僕たち出演者が観世さんのセリフを振り分けてことなきをえた。また、観世さんのセリフの間違いがきっかけになって、話があっちに行ったりこっちに行ったり、客席がわいて「観世のじっちゃん、頑張れ
! 」と声が掛かって大受けになったこと。
その『天保十二年のシェイクスピア』新潟公演の夜、共演していた稲野和子さんの実家の料亭で出演者全員で宴会をしたとき、観世さんが突然幇間(ほうかん
= 太鼓持ち)芸を踊りだして、あの強面(こわもて)の観世さんからは想像もつかない、軽妙な踊りにみんながビックリして大喜びしたこと。(たっぷりの元手と観世さんの人生をかけた、すごい芸を見せていただいたことに感謝
! )
ブランドものの新しいサングラスをして『紅葉乱舞車達引』の稽古場に来た観世さん。稽古を見ながらそのサングラスをおもちゃにしていたが、そのうちに蔓を曲げはじめ、見る間にぐにゃぐにゃにした揚げ句、使い物にならないほどに壊してしまった。ああ、勿体なかった。(出演者は、稽古よりも観世さんの手元の方が気になっていた)
渋谷・ジァンジァンでの『冬眠まんざい』。最後に、梁(はり)に縄を吊るして首をかける場面があるのだが、その梁を作るのために、観世さんは当時住んでいた赤坂の自宅から、2メートル以上もある太い竹を、担いで歩いて、渋谷まで持って来られた。作品を創るためには外聞をいとわない、情熱の人だった。
新国立劇場で『子午線の祀り』を新キャストで公演することになった頃、観世さんと僕は疎遠だった。観世さんは早い時期から、新国立劇場の制作部に「佐藤輝昭を探し出せ、彼の連絡先を調べろ」と指示を出していたと聞いた。
その顔寄せの時、作品について観世さんが説明していると、作者の木下順二さんが突然話をさえぎって「観世クン、もっと大きな声で
! 」と、注文をだされた。すると観世さんは、まるで演出にダメをだされた新人研究生のように素直に、「はいッ !
」と返事をされた。このお二人の深くて長い師弟関係を理解できる、ほほえましいできごとだった。
時代を背負う特に優れた能楽師兄弟として「観世三兄弟」と呼ばれた、長男・寿夫(ひさお)さん、次男・栄夫(ひでお)さん、弟で先代・銕之丞(てつのじょう)さんだった静夫さん。僕はこの「観世三兄弟」皆さんにお世話になり、芸に対する真摯な姿勢と、ものごとに対して毅然と自分の立場を貫く姿勢を教えていただいた。
能・狂言はもちろん、新劇、映画、オペラなど栄夫さんが活躍された世界の広さを見せて、各界からの参列者があった。
数十人が和して謡った「見送りの謡」の荘厳な響きの中で、別れを惜しんだ。
涙雨の中に別れのクラクションを響かせて棺を載せた黒塗りの車が走り出したとき、僕はたまらず「栄夫さ〜んッ!」と大きな声をかけた。
思えば昨年12月6日、紀伊国屋ホールでの『黒いぬ』に出演していた観世さんを楽屋に訪ね、ご挨拶を交わしたのが生前最後の時間だった。
『子午線の祀り』の舞台で2メートルもの高さから転落したこともあり、その後のお体のことを心配していたが、そんな影響を感じさせない舞台姿だったので「お元気そうで何よりです」と言うと、観世さんは「元気でもないよ。あっちこっち切ったりつないだりして・・・。」とおっしゃって「あんたの連絡先は変わっていないか?」と尋ねられた。
その時一緒になった姪の観世葉子さんから、観世さんが入院されていたことを初めて聞いた。今年の正月に、そのお見舞いを兼ねて、連絡先をあらためてお知らせする年賀状をさしあげた。それへのお返事はないままに、栄夫ちゃんは旅立ってしまった。
栄夫ちゃんは、僕に何か連絡したいことがあったのだろうか。今となってはそれを知ることができない。
佐藤 輝 ☆彡
2007.6.11
観世榮夫さん逝去
2004年世田谷パブリックシアター公演『子午線の祀り』を演出された観世榮夫(かんぜひでお)さん(79歳)が、2007年6月8日朝、逝去されました。
心から、ご冥福をお祈り申し上げます。
1973年に渋谷・西武劇場で公演した井上ひさし作『天保十二年のシェイクスピア』(出口典夫演出、阿部義弘事務所製作)で共演して以来、観世榮夫さんには言葉では言い尽くせぬほどのお世話になりました。
1977年に僕が結成した劇団動物園に客員メンバーとして参加していただき、旗揚げ公演・ミュージカル『紅葉乱舞車達引』では演出だけでなく、出演もしていただきました。また、多くの貴重な助言を頂戴しました。
観世さんが語られた「俳優の仕事は日々新しい自分を発見することだ」は、今も俳優としての大切な心構えとなっています。劇団では『ろば』『むかし・まつり』も演出していただきました。
劇団以外でも渋谷・ジァンジァンでの『冬眠まんざい』、『四谷怪談』、ロックミュージカル『落城』、民音の作家と音楽『水上勉・青江三奈 越後つついし親不知 越前竹人形 五番町夕霧楼』など、観世さん演出の舞台に多数出演させていただきました。
特に1999年に新国立劇場が製作・公演をした木下順二作『子午線の祀り』では、観世さんの推薦により義経の配下「伊勢三郎義盛」役をいただき、観世榮夫さん単独演出となった2004年の世田谷パブリックシアター公演では、僕の代表作の一つと言われるほどの大好評をいただきました。これは観世榮夫さんが僕の中に育ててくださった「語り」の要素が実を結んだ結果だったと、感謝しております。
榮夫さん! 安らかにおやすみください。
佐藤 輝 ☆彡 2007.6.8