山形県・庄内地方・庄内町・俳優 佐藤 輝-2
       
佐藤 輝の世界 山形県・庄内地方・庄内町 - 2
     
    
当ホームページ内に掲載されている俳優・佐藤 輝の故郷、山形県・庄内地方・庄内町に関係する部分をまとめました。
     

 
山形県・庄内地方・庄内町03年3月〜04年12月 05年2月〜06年6月 06年7月〜07年5月 07年6月〜08年12月 
09年1月〜10年1月 10年4月〜11年3月 11年3月〜6月 11年7月〜12月 11年12月〜12年3月 12年5月〜11月
 12年11月〜13年5月 13年8月〜14年7月 
14年8月〜16年8月 16年10月〜17年11月  17年11月〜現在 
 山形県出身芸能人文化人
 

           
2005年2月〜2006年6月分


6月といえば

 さくらんぼ、桜桃だ。
 子供の頃はさくらんぼとは言わず、桜桃、それもオットゥと呼んだ。

 さくらんぼの王様、佐藤錦が今朝、山形から宅配便で届き、洗う間も惜しんで早速口に放り込む。巧みに種をはずして果肉をかめば、甘味たっぷりの上品な味が口中いっぱい広がった。この、得も言われぬ幸福感よ。

 記念写真をパチリ。





 6月の山形は、緑したたる万緑の中に、この鮮やかなさくらんぼの紅色がたわわに輝く。国内生産量のほとんどを生産している山形県内のどの果樹園も、誇りを持って生産している意欲が感じられて、気分の滅入るしとしと梅雨の時季に、店先に佐藤錦が並び始めると、心が明るくなる。
 毎年送ってもらう東根市神町にある平山果樹園のさくらんぼは、特に心を込めて育てられているようで、粒が大きく立派、色鮮やかで、ことに甘く感じられる。
 雨に当ると完熟した実にはヒビが入るから、雨に当てないように気を使いながらの収穫と出荷で、さくらんぼ農家は寝る暇もないと聞く。その農家の皆さんの苦労の結果が、この口中に広がる満足感だ。ありがとう!

 6月はさくらんぼの月だ。

                  輝 ☆彡 06.6.18


♪花の山形

 ゴールデンウィークに、この時季としては久し振りの帰省をした。
 故郷は花笠音頭の歌詞のごとく、全県「花の山形」。ミカン類以外は何でもとれるフルーツ王国山形だけあって、サクランボ、リンゴ、桃、梨などが一斉に花咲き、どこも淡い春霞色に染まっている。が、月山から湯殿山、羽黒山にかけて、今なお残る雪の多さに、この冬の豪雪をしのんだ。
 鳥海山、月山の伸びやかな山容と、山々を水面に映して田植えの準備が進む庄内平野の大きな広がりの美しさ、壮大さ。言葉には言い尽くせないこの自然の美しさが、僕の心をどれほど強く大きく支えてくれているかと思うと感謝の気持ちで目が潤む。ああ、おだやかで美しいこの時季に帰省出来て良かった。


俳優佐藤輝 山形自動車道、月山


 さっと焼いた新鮮なクチボソガレイ、出たばかりの竹の子汁はまさに故郷・庄内ならではの味わい。うまい !
 悔しかったのは鳥海山のミネラルたっぷりの伏流水で育った岩ガキ。以前はゴールデンウィークにも食べられたのだが、食中毒を避けるために去年から漁獲開始時期を1カ月遅らせることになり、5月には食べられなくなったこと。

 もっと日本海の幸を味わいたいと思って立ち寄った酒田港にある「さかた海鮮市場」2階の食堂「海鮮どんや とびしま」。ホームページには営業時間が午前7時〜午後7時とあるから、この時間の間なら当然食事が出来るものと思って行ったが、昼の食事は11時半からしか出来ないとのことで10時半頃には長蛇の列をなしている。期待して行ったのだが、客を十把一からげに扱う態度と案内の粗雑さに嫌気がさしてここはあきらめた。


俳優佐藤輝 山形、ムッシュ・サトウ


 帰省の度に探していた山形市の美味しいレストラン。今回は少し時間の余裕があったのでようやく探すことが出来た。出会ったのは「ふらんす風料理 monsieur Satoムッシュ・サトウ」。県庁に近い静かな住宅街にある店はサービスも心地よく、清潔で洒落た小部屋でランチを手軽に楽しんだ。上品な手の込んだ微妙な味わいは県内トップクラス。


俳優佐藤輝 山形、ムッシュ・サトウ


  今度はじっくりとディナーを味わいたい。これでまた、帰省の楽しみが一つ増えた。

                  輝 ☆彡 06.5.13


「今 支える 庄内の記憶」山形新聞記事 

 出演する芝居やテレビなどの台本を受け取って読み始めると、もう他のことには手がつかなくなってしまう。もちろん気も回らなくなる。
 稽古、公演に入ったらもうそれだけに集中する毎日だ。
 僕の仕事は俳優。お客さんに今生きていることを喜んで貰うのが仕事。それも、今地球上で公演されているどの作品よりも高いレベルで楽しんで貰いたいと思っている。そこまで仕上げるには全神経を傾けて役作りと演技に集中するしか方法はない。金銭には換算できない、膨大な時間とエネルギーが必要な作業だが、その方法以外では良い結果を出すことが出来ない。
 また、結果が出せたかなと一瞬は思えても、直ぐに「いや、あそこはこう解釈する方がより喜んで貰えるのではないだろうか。」などと止まるところを知らず次々と解決しなければならないテーマが千秋楽が終るまで出てくる。
 だから公演が終ると、その間に出来なかったモロモロが山ほど待っている。終ったばかりの舞台の感激の余韻にひたっていたい思いをかなぐり捨てて、頭を切り換える。
 この10日間はそのモロモロに集中して、ようやく一段落。自分を取り戻した。


      
「俳優 佐藤輝」を「今 支える 庄内の記憶」と紹介した2月22日山形新聞朝刊1面トップ「元気 山形」のインタビュー記事。 

 先月22日の朝、故郷・山形に住む知人から「今朝は電話が鳴り止まなくて大変でしょう ? 」と電話がかかってきた。・・・ええッ! 何で? ・・・きょとんとした。 僕にとって何か特別の日ではないし、何事があったのかと一瞬不安になりながら「そんなことは何にもないけど・・・、何かあったの? 」と聞き返した。すると電話からは「・・・今朝の山形新聞の一面トップにあなたのことがデカデカと出ているよ! 」との返事がきた。
 山形新聞の一面トップ? デカデカと? ・・・だから「電話が鳴り止まなくて大変」な朝?
 確かに、山形新聞の編集者から「元気山形と言う特集に載せたいので」と2月の初めにインタビュー取材を受けはしたが、頭の中ではそれと「一面トップにデカデカ」とは結びつかない。が、電話相手に確かめると、記事の見出しは「元気山形」で「江東区のホテルで撮った、手を広げたカラーの写真も入っているよ」と言う。それを聞いて記事の内容には納得したもののその扱われ方を中々信じがたく、相手には失礼ながらその言葉を少々オーバーな表現だろうと、割引きながら聞いた。

 それから2日後、担当者から新聞が届いたと事務所から紙面のファックスが届いた。それを見てびっくりした。まさに朝刊の一面トップだった。
 カラーのコピーが丁度舞台稽古中の『OHダディー!』楽屋にも届いて、それを制作部が廊下に張りだした。
 スタッフや出演者が記事を読んで「すごい、輝さん! オリンピックの金メダルだね」と声を上げた。

              輝 ☆彡 06.3.17


『OHダディー! 』歌稽古

 ・・・、などと言っている間に、1月も尽きてしまう。2006年の12分の1が終る。
  ドン・コルレオーネの歌に「信じろ 若者にはわからない 月日が過ぎ去る速さを」と言う歌詞があるが、実感をかみしめながら歌の練習をしている。
 1月は明けても暮れても歌・歌・歌・歌、寝ていても歌・歌・歌・歌・・・の毎日。
  三木たかしさん作曲の歌が難しいの何の ! それもソロの歌よりもコーラス部分がチョー難しい。出演者が少ないから各パートは夫々1人ずつ、自分を頼るしかないこの孤独感。
 これだけ苦労していても客席にはきっと気持ち良いやさしい歌として響くのだろう。でも、「覚えるのに苦労したんだろうな」とお客さんに同情されるのは出演者としては最悪。僕らはお客さんに気持ち良く楽しんで貰えれば幸せだ。・・うん、まあ、良しとするか。


俳優佐藤輝 撮影 雪の東京


 21日には東京でもこんなに雪が降った。その日も歌・歌・歌 !


俳優佐藤輝 撮影 晴れ上がったれ東京
 ビルの向こうに多摩の山々が連なっている。


 こんなに富士筑波、日光男体山、谷川岳の山々が見える冬も珍しいが、そんな日も歌・歌・歌 ! だ。
 湿度が10数パーセントの日もあって、鼻と咽喉には最悪の環境だから、お茶をたくさん飲みながら歌の練習の時も眠る時もマスクをしたままでいる。

 故郷から生の寒鱈が届いた。荒れる日本海で漁師さんが命がけで獲った鱈だろう。
 豆腐、ネギを入れた味噌仕立てに岩ノリを浮かべたどんがら汁にして熱々をふうふう言いながら食べる。
 白子を少し、軽くあぶって塩かポン酢。これもうまい。
 折り良く八百屋で、庄内砂丘特産の早春の味、アサツキ(浅葱、キモト)を見付けたのでこれもさっと湯がいて酢みそ和え。今年は砂丘も雪が厚く積もって砂丘から掘り起こす作業に苦労しているらしい。
 ほおぅ、あったあった、庄内の旨い吟醸酒 !
 庄内の味のフルコース。これで元気をつけて稽古は次の段階へ !

                輝 ☆彡 06.1.31


2006年、あけましておめでとう!
 
 昨05年は、前年暮から好評だった伊勢三郎義盛役の『子午線の祀り』公演が続いて年が明け、400回出演を数えた『ラ・マンチャの男』のサンチョも好評を頂き、『ドン・キホーテ』出版400年に俳優生活40年(65年小幡欣治作『畸型児』社員Bでプロ初出演)、60歳など沢山の私的な記念も重なった思い出深い年となりました。
 こう思えるのも、ひとえに応援して下さった皆様と支えてくれたスタッフの皆さんのお陰です。ありがとうございました。

 サンチョの役作りで2月に訪ねた6回目のスペイン。
 日本の敗戦記念日8月15日に故郷庄内で公演した『ろば2005』のリーディングドラマ。(劇中の弾き語りのために、新しいスペイン製のギターを買ってしまった。)
 11月8日の母校の高校創立記念日には記念講演をさせて頂き、後輩たちから熱い希望のエネルギーを貰った。
 NHK『俳句王国』での稲畑汀子さんとの出会い。感性を求められる第一線で長く活躍される生き方を学ばせて頂いた。
 こうした沢山の良い思い出の詰まった昨年でした。が、人生の縮図のように辛いことも同時にありました。
 その一つが暮も暮、クリスマスの夜に起きた故郷・庄内町での羽越線特急いなほ脱線転覆事故。自分が育った冬の厳しい自然と今現在そこで生きている人たちのことを強く思い出させてくれた。犠牲になった5名の方のご冥福をお祈り致します。

 来週9日には久し振りに出演の時代劇ドラマ『水戸黄門』が放送される。
 老舗まんじゅう屋の老番頭役。僕は早く老け役を演りたいと希望していたので「老番頭役」と聞いて「黄門さま」くらいの大老け役を想像して喜んでかつら合わせに行った。ところが東映京都のかつら屋さんは僕の顔を見るなり「老番頭・・? 」。その結果、僕が思い描いたような大老けにはならずザンネン。番組をご覧下さい。

 おとそ気分が抜けると『OH ダディー! 』の稽古が本格的に始まる。いままで余り演ったことの無い役柄でこれも楽しみだ。オペラ好きのマフィアのドン、コルレオーネなんて聞いただけで何かわくわくするでしょう? 僕もわくわくしながら台本を読んでいる。

 もうファンタスティコな2006年が明けている。今年も僕は「毎日が初日」でアデランテ !
 皆さんにとっても、ファンタスティコでムイ・ビエンな1年でありますように !

                  輝 ☆彡 2006.1.2


特急『いなほ』脱線転覆事故

     地吹雪の 晴れて一村 間近なり

 去年1月のNHK『俳句王国』にゲスト出演した折りに詠んだ俳句は、故郷・庄内平野の冬景色だ。

 例年1月から2月にかけて日本海の冷気をふくんだ強烈な西風が、地表のすべてのものを空に巻き上げるように吹き上げる。降る雪に地表から巻き上げられた雪も加わって、数メートル先も見えないブリザードとなる。

 風が強く吹き抜ける民家と民家の間には屋根の高さまで雪が吹き積もった「吹き山」が出来て道をふさぐ。除雪車の無かった子供の頃は、強風と吹雪で息もつけない、目も開けられないその吹き山を、足跡を踏みしめながら先に行く6年生の直ぐ後にすがりつくようにして越えたものだった。
 吹きッさらしの田圃の地吹雪も辛いが、吹き山に集って来て吹雪く風はもっと恐ろしかった。

 ここ数十年は暖冬傾向が続いて、そんな地吹雪も少なくなったと話題になるほどだったが、今年は本物の冬が早々と日本列島を覆った。

 そして25日夜、JR羽越線特急『いなほ』14号の脱線転覆事故。
 場所は僕が生まれ育った故郷・庄内町。最上川の鉄橋を渡った直ぐ南。
 あの鉄橋から直ぐの東側には昔、手漕ぎの渡船があって何度も乗せてもらって遊んだし、河川敷では草競馬が開かれた思い出がある。リヤカーに薪や鍋を積んで行っては学校行事の、家族、仲間との芋煮会を何度も楽しんだ、慣れ親しんだ場所だ。

 運転士の「橋梁を過ぎたあたりで右方向から強い風を受け、電車が左に傾いた」との話をテレビで聞いて、僕は直ぐに、吹き山の頂上に吹いていた息も出来ないほどの強い風を思い出した。

 鉄橋の北側の風速は20メートル以下だったそうだし、風は西から東へ鉄橋の上では線路の下にも別れて吹く。
 が、橋を渡りきった場所は線路と直角に最上川の高い堤防が西に延び、線路も堤防の高さから田圃の中をゆるやかに下る土手の上を南に進んでいる。
 遮るものの無い田圃を西から堤防沿いに吹いてきた強風は線路のある土手にぶつかり、2面を遮られて更に強さと早さを増して土手ののり面(斜面)を上昇し電車を空中に吹き上げたのではなかったか?
 そう、想像した。
 そこを吹き上げる空気の流れ、風の強さは当時どうだったのだろう。

 あの列車に乗客が少なかったのは不幸中の幸いと言えるが、4人の方が亡くなられたのは何とも痛ましい。心からご冥福をお祈りいたします。

 この惨事と言い大津波と言い、人生には何が待っているか分らないと、去年今年の暮れに続けて思い知らされている。

                  輝 ☆彡 05.12.27


熱唱・最上川舟歌

 東京には、小さな集落を単位にしたものから県人会まで、生れ故郷を絆にして地方出身者が集る郷土の会が文字通り数えきれないほどあるに違いない。

 東京余目会もその一つ。
 7月に隣りの立川町と合併して新しく「庄内町」となった故郷・余目の会が23日にあり4年ぶりに出席した。
 今年で44回を迎える会は、昭和30年代中ごろの希望あふれる経済成長期に、故人となった叔父たちが中心になって創ったもので、昭和39年に僕が上京した当時は池袋の大衆浴場会館の畳の大広間を会場にしていた。父が恩師として何度も招かれ、その度に案内したり迎えに行って顔を出した。

 今年は洒落た会館のパーティー会場でオペラ歌手のアトラクション付き。
 創立当時に第2世代としてバリバリ働いていた会員も今や顧問、相談役にまつりあげられて、第3世代が会を運営している。
 その第2世代の皆さんに僕は大変お世話になった。ご家族もふくめて何度も芝居を観に来ては応援して下さった。僕の初舞台から観て下さっている方もいる。

 その皆さんに個々に挨拶したくて一般会員として参加した。
 だから、歌や挨拶など何の用意もしていなかったのだが、その中のお一人に「もう来年はこの世にいないかも知れないのだから、あなたの最上川舟歌をぜひ聞かせてくれ」などとせがまれると断り切れずに、歌うはめに。

 「最上川舟歌」は自分が構成した芝居やコンサートにも入れ、スペインのラ・マンチャの風車などで機会あるごとに歌っている、故郷の大好きな歌。
 急流をさかのぼる力強い掛け声と、大河の流れにまかせて下るゆるやかな甚句の構成が見事に調和して、歌っていると雄大な最上川の風景が目に浮かんで来る。


俳優佐藤輝 東京余目会(山形県)

 
 皆さん、手拍子と掛け声をかけて楽しんで下さった。
 これが故郷を思う会の原点なのだろう。

 斎藤さん、次の「最上川舟歌」も、次の次のも、まだまだ元気で聞いて下さい!

                  輝 ☆彡 05.11.24


雪起こしの大雷雨・母校記念講演

 朝の酒田は快晴で、ホテルの部屋の真っ正面には庄内平野の行き着いた先になだらかに弧を描く月山の稜線がくっきりと、その手前には黒々と羽黒山が見える。
 母校の創立記念日にふさわしい晴れやかな空を、最上川畔から飛び立った白鳥の群れが三々五々と横切っていく。

 この季節の庄内の天気は油断禁物。
 月山に雲がかかってきたと見るうちにさっきまでの空はどこへやら。講演が始まる頃には冷たい雨が降りだして、1曲目の歌を歌い終ると同時に雷鳴が轟き、トタン屋根に叩きつける大粒の雨。
 この時季、この地方特有の「雪起こし」の雷雨。故郷はこれを境にみぞれとあられ、雪の季節に入る。

 約700名の後輩と、母校で僕の1年後輩だと言う船越校長はじめ学校職員、それに宗同窓会長、橘PTA会長、原田庄内町長など多くの来賓が楽しそうに話を聞いてくれた。

 その内容は、
 1. 自分のコンプレックスを生かして人と共に生きたい
 2. だから人に感動して貰える俳優を目指し、そうした作品に出たい
 3. その目標に向かって、今乗り越えなければならないものへのトライ
 4. 「毎日が初日」の稽古と舞台
 5. 共に作品を作る支え合う仲間と、レベルの高い指導者との出会い
 6. 感性を育んでくれた庄内の風土・歴史・文化

 ミュージカル一般と、『ラ・マンチャの男』の歴史。庄内での少年期、演劇との出会い。昭和40年にプロとして初めて舞台に立って以来、40年間歩んできた俳優の道。その間に幅広いジャンルの作品とスタッフに出会い、それによって更に活躍の場が広がって『ラ・マンチャの男』のサンチョ449回を迎えることが出来た、そのさまざまな出会いを語った。

 1時間30分。語り、歌い終っていただいた拍手は寒さと雨音を打ち消して熱気にあふれていた。

 一人の生徒がサインを求めに来て感想を語ってくれた。
 感動した思いを熱く語る真剣なその姿が、俳優への希望をふくらませていた自分の高校時代の姿とダブって見えて、僕の目は潤んだ。

 早稲田の聴講生入学のために成績証明書をもらいに行って以来、31年ぶりに訪ねた母校での講演。
 後輩たちの今日明日にとって何の利益になる話では無いが、何かを感じてくれたことが僕には嬉しかった。
                  輝 ☆彡 05.11.9


    講演の様子を報じた山形新聞「夢の大切さ 熱く」
    俳優佐藤輝 山形新聞 山形県立酒田東高等学校



山形県立酒田東高等学校創立85周年記念講演

 佐藤 輝が母校の創立記念日に記念講演をします。
2005年11月8日(火)   
    記念式典 10時40分〜11時00分
  記念講演 11時〜12時30分
       演題は『見果てぬ夢 〜 サンチョへの道』

    お問合せは酒田東高校へ 0234-22-1361


『ろば』の思い

 関東を直撃するかと思われた台風17号は、一時強い風が吹いたものの東に逸れて被害がなく、ほっとした。
 25日夕方からはカラリと爽やかな秋晴れになって、足許を涼気がかすめる。

 終戦60年の暑い夏が終った、と実感する秋風。

 終戦記念日の先月15日、山形で『ろば 2005』と題して、リーディング・ドラマの公演をした。


        
          劇中歌「夏の日がすぎて」をギター弾き語り。


 大藪郁子作『ろば』は、昭和40年3月に上野動物園で死んだ実在のろば・一文字号の数奇な一生を、戦中戦後の庶民史と重ね合わせて描いたドラマ。
 最初、『ろば』は『一文字一代』というTBSのラジオドラマとして書かれた。エノケン(榎本健一)さんがろば一文字を演じた。
 そのドラマに出演していた劇団俳優小劇場の演出家・早野寿郎さんが一文字の一生に興味をもって、小沢昭一さんの『とら』、小林昭二さんの『こい』と共に一人芝居3本立て構成の「新劇寄席」というタイトルで昭和42年に舞台化した。一文字を演じたのは西村晃さん。
 「新劇寄席」は好評で、全国各地で公演された。
 昭和43年にその劇団の研究生になった僕は西村晃さん演じる『ろば』と出会い、将来いつの日にか自分もこの作品、このろばを演じたいと思った。
 
 ろば・一文字号の一生が、戦争によって人生を翻弄された同時代の人々の一生と重なり合って時には哀れで涙を誘い、時にはわれんばかりの爆笑を巻き起こし、戦争をこばみ平和を求める庶民の思いが心にしみるように伝わる構成になっている。俳優としてろばを演ずる楽しさと共に、その思いを若い世代に伝えたいと思った。

 その後、劇団は解散し、昭和52年に僕は劇団動物園を結成した。
 西村晃さんが、「ろばを演ずるには体力の限界だ」とさよなら公演をしたと聞いて、僕は作者の大藪郁子さんに上演許可をお願いした。
 大藪さんは喜んで快諾して下さった。
 そして昭和54年に劇団動物園公演として渋谷山手教会の地下にあった小劇場・ジァンジァンで『ろば』を上演した。

 大藪さんはその時のことを公演パンフレットに次のように書いている。
 昨年私は佐藤さんに初めて会い、十年来の夢と聞かされ、知らぬ間に育っていたわが子と対面した喜びを感じた。『ろば』初演の稽古の時に、私は劇団の一研究生に、「この芝居にはテーマがないですね。戦争へのノスタルジーなら下らない」といわれ、「人生がわかってないな」とつぶやいたものだった。政治的スローガンの絵ときをして見せてもらっても、抽象的な「愛とは何か」をカンカンガクガク論じてくれても、そこにトータルな人生はない。私にとって芝居とはトータルな人生を描くことである。しかし同じ頃、佐藤さんのように、「ろば」の気持を理解してくれる若い人がいたのだ。その佐藤さんが、もうトウでもたったかのような口ぶりで「若い人たちに“ろば”の気持を伝えたいと思って」という。一文字さん、まだまだあなたのあわれさ、おかしさは、日本の若い人たちの口からくちへと伝えられていきますよ。

 その後も再演し、03年には、太平洋戦争をまったく知らない世代にも理解し易いようにと潤色した『ろば2003』として横須賀芸術劇場で公演する機会も頂いた。

 この夏、終戦60周年のその日に自分なりに出来ることがないかを考えていた僕は、それにふさわしいのは『ろば』の公演が一番だと思った。
 折り良く、家を改築した兄から、その広い座敷で町の人たちのために何かを演じて貰えないかと頼まれていたのを思い出し、『ろば2005』の公演を提案した。
 公演日まで2週間。提案を快く受け入れてくれた兄は、短期間のうちに特製の平台まで準備して待っていてくれた。

 戦争もろばも知らない(ハズ? )の幼児からその親たちなど30人の観客は1時間のドラマを楽しんでくれた。この人たちの心の中にろば・一文字が生き続けてくれるなら、僕の8月15日も意味があったことになる。

 僕の、『ろば』を一人でも多くの若い人たちに伝えたいという思いは変らない。
 『ろば』は構成や演出によって、一人語りにも多人数出演者の舞台にも作ることが出来る台本だ。もし、ろば・一文字の一生を知りたい人たちがいれば、スケジュールさえ合えば僕はどこにでも出かける積りです。
 希望される方はどうぞ遠慮なくご相談下さい。

                  輝 ☆彡 05.9.27


琴ノ若ッ! おめでとう! !

 琴ノ若ッ! 勝ち越し、おめでとう! !
 幕内最高齢、37才が勝ち越した。

 在位89場所。
 17日には同郷・山形出身の名横綱・柏戸の599勝を抜いて歴代13位、現役2位の600勝を記録したものの、その後あと2つの☆が増えなかった。それだけに今日の勝ち越しが嬉しい。

 選手生命の短いプロスポーツ界第一線での琴ノ若の活躍が、矢張り体力を使うミュージカル出演が多い僕にとって、世代を超えて嬉しいニュースだ。励まされる。
 最年少19才の稀勢の里に負けた直後の、NHKアナウンサーが親子にたとえて語った「世代の交代を感じる、云々」という失礼極まりないコメントを、人の心の痛みを知らない言い方だと憤っていた僕は喜びが倍加した。

 先週、敬老帰省した山形では、琴ノ若の出身地尾花沢市に本店があるスーパーおーばんが、琴ノ若が勝つと花火を打ち上げ、全店で特売をして応援していた。
 今日の勝ち越しで応援が更に盛り上がっているだろう。

 もっともっと頑張れッ ! 琴ノ若ッ !
 でも勝ちすぎて上に上がりすぎたら、来場所が大変だぞ。でもガンバ !

                  輝 ☆彡 05.9.23


発想と表現

 このところ日々思うことは「発想と表現」について。
 演ずるとき、表現するときに一番大事なことなのに、ひょっとすると忘れられる。

 僕が、人に求められた時に色紙に書く「毎日が初日(しょにち。はつひでは変過ぎる)」の思いは、このことを忘れずにいようとの思いだ。

 発想するから、それを伝える手段として表現がある。なのに発想しないで表現の仕方を先ず追い求める。
 相手役の気持ちを受けて返す、感じて反応する。ともすると受けずに感じずに段取りだけで返した積りになる。

 日々の生活の中でも何を感じるか、どう思い反応するか。それは演技の発想と表現に直結する感覚・能力だ。
 色んなものからインスピレーションを得る感性。感じた思いを、観る人、聞く人により深く伝える表現と技術。この心がけこそが表現のプロとして存在する唯一の支えだと思える。

 7月の演劇ワークショップでは「発想と表現」をテーマにした。
 初心者はどうしても、どう動いたら上手く見えるか、格好良く見えるか、セリフの上手い言い方はどうすればよいかを先ず考え勝ちだが、その前に「発想と表現」が最も大事だと感じて貰いたかった。

                  輝 ☆彡 05.9.21


東京着午前2:10

 今日も新潟長岡で震度5強の地震。このところ関東から北の地震が多い。

 『ろば2005』の公演が好調に終って、爽やかに晴れ上がった翌16日。
 予約してあったレストラン、アル・ケッチァーノに開店と同時に入って席に着いた途端、大きな揺れ。天井から吊った照明は東西にゆらゆら揺れている。

 最近の東京は地震慣れしているので、これは震度4まではいかないな、3くらいだろうな、などと話しながらワインを選んでいると、携帯ネットでニュースを見た同行者が「今の地震は宮城で震度6弱だって ! 」。「震度6弱 !? 」みんなびっくりして顔を見合わせた。特に仙台から来ていた夫婦の夫は国道を担当している国土交通省の職員だから緊張が走った。ニュースでは新幹線のストップや被害の状況が伝えられている。彼は夏休みの帰省中だが直ぐに職場へ連絡を入れた。

 アル・ケッチァーノは、藤沢周平の時代小説で描かれた海坂藩のモデルとなった庄内藩の城下町・鶴岡市の隣り、櫛引町にあるイタリアレストラン。地元、庄内でとれる新鮮な食材を生かしてシェフの奥田政行さんがつくる料理が評判を呼び、食通の間にじわり浸透している店だ。僕もここ数年噂を聞いては機会があったら是非食べたいと思っていたのだが、今回の帰省でようやくチャンス到来となった。

 味もさることながら遊びごころにあふれたメニューの数々を楽しむことが出来る。店名の「アル・ケッチァーノ」にしてもイタリア語のような響きに聞こえながらイタリア語ではない。「あるんだった」を強めた意味の庄内弁「あるけちゃの」をもじっている、面白い。
 食材のうまさを引きだすあっさりした味付けは舌にも胃にももたれない。2種類のデザートも含めて9皿の料理を楽しんだが、おなかはすっきりした満足感で心地よい。これで庄内に帰る楽しみが一つ増えた。

    


      

    
シェフの奥田政行さんと
   
     


    
ワインもほど良くまわって、店長さん夫妻と
  

 翌日は山形新幹線で帰京する予定なので、その日のうちに山形へ移動しようと陸羽西線狩川駅に着いて驚いた。新庄方面行の上り列車は30分から100分遅れになっている。仙台に急ぐ夫婦の車に同乗させてもらって助かった。
 「五月雨を あつめて早し 最上川」は前日の朝まで降り続いた雨で、観光客を乗せた川下りの船が小さく見えるほど増水している。したたるような緑が両岸にせまる山々を覆っている様子を眺めながら川と山の間の国道を走った。

 プールの天井が落ちた被害を報じた夜のニュースでは、ストップしていた東北新幹線も復旧して明日朝から通常ダイヤにもどるだろうと報じていた。

 17日夜、山形発7時31分の山形新幹線つばさ128号に乗る予定で駅に着くと様子がおかしい。駅員が総出で運行中止や発着時刻の変更を告げている。予定のつばさは40分遅れだとの説明。昨夜再開した新幹線が今日も影響が残っているとは想像だにしなかった。

 仕方なくお茶を飲んでいると、更に10分、更に15分と遅れは増して、結局75分ほど遅れて山形を発車した。が、次の駅の手前、その次の駅と、発車のめどが立たないままに長時間の停車が続いた。米沢駅では徹夜を覚悟してすきやき弁当とお茶、スポーツドリンクを買い込んだ。その米沢から普段なら数十分で着くはずの福島まで何と1時間半もかかって、夜12時も過ぎてしまった。
 すきやき弁当を買っておいて良かった。腹が鳴りだした。
 弁当に付いたヒモを引くと蒸気が吹き出して熱々のすき焼き弁当になる。温泉卵を割りほぐして肉にからませると、トロリうまい。前から好きな弁当だったが更にうま味が増した。などと・・・これも時間つぶしの楽しみにはなった。

 福島からは順調だったが、途中の情報では東京駅からの乗換は出来ない。このまま車内に泊まって一番列車を待ってくれとの車内放送。
 宇都宮駅では全員にお茶が配られた。その後、乗換え連絡電車を運転するとの案内があって車内には安堵の空気と疲れがないまぜになった。

 午後10時24分着予定が結局、午前2時10分東京着 !

 特急料金の払い戻しを受けても割に合わない疲れた新幹線だった。

                  輝 ☆彡 05.8.21



『ろば2005』終戦60周年平和祈念リーディング・ドラマ
 大藪郁子・作 佐藤輝・台本・演出・出演

2005年8月15日午後7時開演 会場・山形県藤島町 某所 ふぁみりー・しあたー

昭和40年(1965年)3月23日、東京上野動物園。
入れ歯を入れたろばとして知られたろば・一文字(いちもんじ)号は、
31才(人間なら約90才)の天寿をまっとうした。


徐州(じょしゅう)徐州と草木もなびく 中国生まれの一文字
盧溝橋(ろこうきょう)近く 一文字山の激戦に 一番乗りして大手柄
名前をもらった一文字
大歓声に迎えられ 落ち着いたのは檻(おり)の中
子供動物園の人気者 ファンレターに嬉し泣き キン歯を入れた一文字
戦中戦後を生き抜いた 庶民ろば・一文字の一代記

実在のろば・一文字号の数奇(すうき)な一生を、戦中戦後の庶民史と重ね合わせ、
飼育係・山田との交流を通して描いたドラマ。

 人のつながり、命のつながり、時のつながり、平和の尊さを未来に語り継ぐ、
ろば・一文字号の感動のドラマを
昭和54年以来語り継いできた佐藤 輝がリーディング・ドラマにします !


劇団動物園公演『ろば』 『ろば2003』公演


故郷の映画祭、羽黒山

 7月24日に故郷・山形県庄内町の響ホールで催された響・映画村2005『なつかしの映画祭』にゲストで出演した。

 館内ロビーには、少年時代に映画や芝居を楽しんだ映画館・末廣座の元館主高橋さんからお借りした懐かしい映画看板ポスターが展示され、中学の同級生だった実行委員がハッピを着て祭りの屋台で売られていたアンツコリン(アイスクリンとも呼ぶ、砂糖水をシャーベット状に凍らせた氷菓)などを安く売っている。僕も一杯いただいた。色付きガラスの器は紙コップに、ハンダ付けされた手作りのブリキ製ストロー付き匙(サジ)はポリエチレン製にかわっているが、目をつむってストローを吸うと懐かしいシンプルな味が口中に広がり、八幡様のお祭りで5円のアンツコリンを吸っていた少年時代の自分の姿が見えた。

 『映画のはなし&エトセトラ』では末廣座、ムービーパレス2館にまつわる我が青春時代の思い出を語り、若尾文子さんとのシネ・セッションは、当日が初対面であったにもかかわらず映画作品、監督、俳優、そして最近の若尾さんが活躍の場を広げている演劇についてと、お客さんも喜ぶ中味の濃い対談が出来た。若尾さんの美貌とお人柄、長年蓄積した実感のこもったお話にスイッと乗せられて僕自身が楽しんだ時間だった。

    
対談後の若尾文子さんと


 庄内平野は一面の稲田と周囲の山々の緑が濃く涼しくそよぎ蝉の鳴く良い季節。楽しみにしていた庄内浜の岩ガキと焼いたクチボソカレイも味わえた。
 今や全国的に知られる庄内特産の枝豆・だだちゃ豆にはまだ早いが、いただいた普通の枝豆もだだちゃ豆と交配した品種なのか、東京で食べる枝豆のそっけ無さとは段違いの味わいがあった。

 新しく故郷の町となった庄内町の旧立川町を、勤王の志士・清川八郎が生まれた清川から立谷沢川沿いに上って羽黒山山頂(414メートル)にある出羽三山神社に参拝した。
 小学4年の時に初めて兄と共に登って以来、その後は自分の感性や発想につながる庄内の精神風土や民俗芸能の基となっている羽黒修験研究のために幾度と無く登っている羽黒山だが、このルートで登ったのは小学5年の遠足以来のことだ。新しく故郷の町となった地域をあらためて見ておきたいと思ってこのルートを選んだ。
 加えて今年は、僕が「結婚式はゼッタイ、大好きな羽黒山の本殿で挙げたい」と強く希望して、当時は珍しかったこの羽黒山出羽三山神社本殿で式を挙げてから丁度30年。妻に支えられて何とか無事に過せたことを羽黒山に報告をする良い機会となった。

    


 羽黒修験の基本理念は「功徳を得て再び生れ出る、生れ変る」。
 俳優として、精神的には常に生れ変ることを自分に課しているが、「功徳を得て」いるかというと甚だ疑問だ。
                   輝 ☆彡 05.7.28


月山山頂の町・庄内町

 「月山山頂の町」といっても標高1984メートルの月山山頂に街があるわけではない。月山山頂をその行政区域に含む地方自治体としての町である。
 庄内町は7月1日にわが故郷、山形県余目町と東隣の立川町が合併して新しく誕生した。

 余目町は山形県の北西部、日本海に面した一大穀倉地帯、庄内平野の真ん中に位置した町。一方、立川町は芭蕉の俳句「五月雨を 集めて早し 最上川」で知られる日本三大急流の一つ最上川が出羽丘陵をぬけて庄内平野に流れ出る山あいの町で、最上川の支流、立谷沢川をさかのぼれば月山の山頂に行き着く。この道は古くは芭蕉が羽黒山参詣の折りに歩き、義経一行が日本海から奥州平泉を目指した逃避行の道でもあった。

 この全域が庄内町となって、わが故郷は「平野の町」から一気に「平野と山岳の町」に大きくイメージを広げた。しかし、「わが故郷」としてまったく違和感が無い。
 僕は以前、その月山を青春の思い出として「草笛や 白く輝く 月の山」と俳句に詠んだ。
 平野の真ん中に住んでいて、南西にどっしりと出羽丘陵を従えて横たわる月山の姿は、平野の北に2236メートルの秀麗な容姿で屹立する出羽富士・鳥海山と共に朝夕眺めては心の支えにした親しみのある山だ。

 その月山山頂のある町・庄内町が豊かな自然環境を上手に生かして新たな文化を育んでくれることを願っている。
                 輝 ☆彡 05.7.26



響・映画村2005『なつかしの映画祭』にゲスト

 7月24日(日) 山形県庄内町(7月1日に余目町と立川町が合併)響ホール
『映画のはなし&エトセトラ』にゲスト出演。「60年代の故郷・余目の思い出」を語り女優・若尾文子さんとシネ・セッションを行います。
上映作品は『稲妻』『サンダカン八番娼館』『華岡青洲の妻』。
 館内では余目吹奏楽愛好会による映画音楽のアトラクションはじめ「懐かしの映画看板展・映画ポスター展」「懐かしの駄菓子展・遊びコーナー」などが設けられます。

響ホール・演劇ワークショップ
 7月25日(月)夜7時 庄内町・響ホール『佐藤 輝、演劇ワークショップ』
内容は「表現と発想の基本」について、2時間ほどの実技を予定。

 どちらも詳細は庄内町・響ホール 0234-45-1433 へお問合せ下さい。


NHKラジオ「ときめきインタビュー」
 
 今朝はいつもより1時間早起きしてNHKのラジオ出演。
 余裕をもって家を出たが、地下鉄が遅れてやっと乗り込んだ車内は身動きできないほどの超満員。汗まみれでスタジオに入った。
 番組は主に故郷・山形県庄内地方での我が誕生から高校卒業、そして俳優を目指して東京の劇団に入った頃を中心にして進んだ。今週は「今年還暦の著名人」のシリーズ。その生い立ちを語れば当然庄内に住んでいた19年間が中心になったわけで、故郷・庄内の話題が多くなり村上アナウンサーに「山形県観光大使」と形容されてしまった。それは意識していたわけではないけれども、それが僕の感性を育ててくれた庄内の歴史と風土に対してささやかな恩返しになったのならばそれはそれで嬉しい。
 庄内の風土と文化が僕の感性を育ててくれて、人との出会いがサンチョや伊勢三郎を創ってくれたと、しみじみと思う。研究生時代は別にして、俳優を仕事として収入を得、生きて来れたことは本当に幸せなことです。多くの人との出会いがその時その時に俳優の仕事に結びついた。
 この番組のディレクター豊島さんとの出会いは教育テレビの5年生向け社会科番組『暮らしの歴史』。丁寧に作られたドラマ仕立ての『五街道』『北前船』『五人組』『汽笛一声』などは人間の歴史が良く分ると好評の番組で、金沢湯湧温泉の江戸村や明治村などで豊島さんと多くの仕事をさせてもらった。
 放送中に受付けたファックスには高校時代の同級生やサンチョファンの皆さん、山形県内、福井県のリスナーの方から感想と励ましをいただきました。ありがとうございました。またこのHPの掲示板にも嬉しい感想の書き込みがありました。
 サンチョや伊勢三郎義盛のファンになって下さった皆さんがそれを演じている佐藤輝にも興味を持っていただける良い機会になりました。
 1時間、ラジオを聴いて下さった皆さん、ありがとうございました。

                  輝 ☆彡 05.7.11 


NHKラジオ「ときめきインタビュー」
 
 放送 7月11日(月)10時5分〜10時55分 生放送 NHKラジオ第1放送

 先にご案内して、国会中継のために出演延期となっていた、朝のNHKラジオ「きょうも元気で ! わくわくラジオ」番組中の「ときめきインタビュー」への出演日が決まりました。
 村上アナウンサーのインタビューに答えて、生い立ち、故郷・庄内について、俳優を志した思い、『ラ・マンチャの男』のサンチョにいたる道のりなどを多くのエピソードを交えて語ります。
 番組放送中、ラジオ聴取者からのファックスによる質問や激励なども受付けます。どうぞお気軽にお送り下さい。
 都合により放送予定が変る場合があります。番組案内でご確認下さい。


山形のサクランボ

 今朝、楽屋入りの支度をしているところに宅配便で東根市の平山果樹園からサクランボが届いた。この果樹園のサクランボは格別うまい。
 黄色みを帯びた紅色の、直径が3センチ近い大粒の佐藤錦ががつややかに飛び出してきた。
 口に含むと、柔らかい皮がプリンとはじけて、佐藤錦特有の上品な甘味が口いっぱいに広がった。後はもう続けざまに口に入れては種を吐き出す、その繰り返し。このリズムの繰り返しと甘さの広がりが得も言われぬ幸福感をもたらしてくれる。

 僕にとってサクランボは『ラ・マンチャの男』と切っても切れない縁のふかい果物だ。
 今から丁度11年前の6月。翌年、95年6月の『ラ・マンチャの男』青山劇場公演にサンチョ役としての初出演が決まって、佐藤勉、宮崎紀夫両プロデューサーに伴われて歌舞伎座出演中の松本幸四郎さんの楽屋へ挨拶にうかがった折りに持参した楽屋見舞いが、折り良く故郷・山形の兄が送ってくれてその朝に届いたばかりのサクランボだった。
 幸四郎さんもサクランボが好物だと喜んで下さった。
 以来、毎年6月サクランボの季節になると、その時の初対面の緊張感とともに幸四郎さん、紀子夫人との会話が鮮明によみがえる。

 更に進化した2005年の『ラ・マンチャの男』帝劇公演も5日間、7ステージを残すのみとなった。
 10日には松たか子さんの誕生日特別カーテンコール。知らされずにいた彼女が、突然始まったオーケストラの「ハッピー・バースデイ」の演奏に感動して涙を流した素直な表情が素敵で、僕はもらい泣きしてしまった。
 娘の誕生日を父が喜んで祝える家族の幸せを、観客も含めてその場に立ち会った人たちみんなが分けてもらった。

 21日夜の部を、皇后美智子さまが観劇された。
 以前から強く希望されていたそうで、舞台を心から喜ばれて、そのご感想を細かにのべられ、サンチョについても言及されたと漏れ承りました。(「かわいいサンチョ」とおっしゃられたとか・・・)
 
 22日の東京新聞夕刊の『ラ・マンチャの男』劇評(演劇評論家・萩尾瞳さん)に「佐藤輝が演じる、温かく愛らしいサンチョが絶品。」とあるとスタッフが知らせてくれた。
 サンチョの演技をそう観ていただけるのは本当に嬉しい。稽古場で演出の幸四郎さんが「チャーミングな作品にしたい」と方針を示されて、その結果、形をなした今年のサンチョだから。

 山形のサクランボを食べながら千秋楽まで頑張る !

                  輝 ☆彡 05.6.24




 市川染五郎さんに3月27日、長男が誕生した。将来は十一世松本幸四郎を襲名するであろうお世継ぎの誕生はまことにお目出度い話で、『ラ・マンチャの男』の稽古場も明るく和やかな雰囲気に包まれている。初孫の誕生でおじいちゃんの立場になった松本幸四郎さんに笑みが絶えない。お孫さんについて「男前で、仕事を脅かされそうだ」と語る時、喜びに溢れている。

 36才、幕内最高齢の琴ノ若が勝ち越した。同県人と言うだけでなく、彼の頑張りに拍手した。それまでは体力で相撲を取っていた琴ノ若はここ数年、前向きの精神力で相撲をしているように見える。その積極性が見る者に夢と希望を与えてくれる。更に更に精神的に強くなって、一場所でも多く現役力士でいて欲しい。ガンバレー! 琴ノ若ッ!

 高校野球。故郷山形の羽黒高校がベストエイトに進出した。僕が子供の頃から何度もお参りし結婚式も挙げた山伏の修験道で知られる出羽三山・羽黒山のふもとに建つ高校だ。山形のチームはほとんど1回戦か2回戦で姿を消すのが常だが、その関門を突破した羽黒高校。明日の3回戦、頑張って欲しい。ガンバレー ! 羽黒高校ッ!

 ハクモクレンの大木が白く輝いて、コブシも咲き出した。そろそろ東京でも桜が咲き出しそう。気の早い人たちは提灯の下にシートを広げている。
 こんな季節には故郷、庄内砂丘のキモト(ワケギ)の酢みそ和えで冷酒。さっと茹でたしゃきしゃきした歯触りが忘れられない雪国の早春の味覚だ。

 頑張るぞーッ! 明日の稽古も。

                   輝 ☆彡 05.3.30


酒田市・希望ホールの講演
 
 26日午後に、青春時代を過ごした高校(酒田東高校)のある山形県酒田市で講演をした。
 昨年7月にオープンした新市民会館『希望ホール』の今後の運営の参考にしたいとの依頼を受けて、企画運営委員と会館職員、少数の一般入場者を対象にして、「希望ホールへの期待と提案」をテーマに語り、参加者との意見の交換をしました。

    


 25日、小雪が舞った夜が明けて東京は曇り。しかし目的地庄内空港の北隣秋田も南隣の新潟も立派な雪だるまの天気予報。
 羽田を発った飛行機は雲海の上を左手に夕陽を見ながら飛行し、日本海上空に一度出てからUターンして1時間足らずで庄内空港に着陸した。滑走路から駐機場に向かってスピードが落ちると、窓の外には舞い散る雪が見えた。
 今度の催しを企画した酒田市の本間教育部長と担当の奥山さんが出迎えてくれた。
 庄内浜の海岸線に平行した道は凍りついているらしく、車輪のスリップを尻の下に感じながら会場に向かって翌日の打ち合わせと下見をした後、高校同期の仲間が待ってくれているだるま寿司へ。
 ここは早世してしまったが高校1年の時に同級だった伸ちゃんの店で、今は奥さんと大きくなった息子さんたちが立派に後を引き継いでいる。
 昭和52年と56年に、僕が主宰していた劇団動物園が酒田で公演した際に同期生が中心になって「観る会」を結成して全面的に応援してくれたが、その時の集まりもこの寿司屋だった。

 本間部長の急な呼びかけにもかかわらず既に9人の同期が集まっていた。嬉しいことだ。

 ホテルに帰ってしばらすると窓の外で何かが響く音がする。不審に思ってカーテンを開けると、さっきは止んでいた雪が横殴りの猛吹雪となって吼えながらガラス窓を打っている。雪が消えてアスファルトになっていた下の駐車場も瞬く間に5センチほどの積雪 !

 翌朝、食堂から、朝日を受けた最上川の河口の先に碧黒く広がる日本海に白く立つ三角波の変幻を眺めていると、白い鳥の列が視線を横切った。白鳥 !
 つい忘れていたが、ここから歩いて10分程の最上川河畔には本州最多の1万2千羽の白鳥が飛来する越冬地があるのだ。地元ボランティアの長年にわたる保護活動でこれだけの数に増えたと聞く。
 食後の腹ごなしに白鳥を見に行こうと玄関まで出ると、さっきまでの太陽は黒雲に遮られて雪が降り出した。ホテルから傘を借りて、新雪を踏みながら河畔に向かう。土手の上は海から吹きつける風が後ろから傘を押してくれるので足も軽い。

 北へ帰る白鳥の第一団はもう出発した、と語る時、酒田の人たちは春間近の喜びを言葉ににじませている。
 岸近くに見える白鳥は数十羽。今の時間はグループに分かれて平野のあちこちの田圃に餌取りに出かけているらしい。





  今、「白鳥飛来地」の看板を中心に留守を守っているのは何と無数の鴨の群 !
 人を恐れる様子は全く無く、餌を期待してか人の回りにすり寄ってくる。それに頭上すれすれにはホバーリングしているカモメの群、そして、ちょっと遠巻きにしてカラスの群。

 行きは良い良い、帰りは怖い。土手の風。
 下から吹き上げる風を、体の前に横にした傘で受けながらの帰り道は中々進まない。雪に埋もれて段々の区別もつかない階段をようやく見つけて、一歩一歩注意深く踏みしめながら土手下の町に降りて、ホテルに帰った。

 開館記念の催しが一段落して、これからが希望ホール運営の正念場。
 向い風が強く吹くかも知れないが、酒田湊を隆盛に導いた三十六人衆の市民エネルギーに学んで、現代の酒田文化の発信地として活き活きと発展して欲しい。

                   輝 ☆彡 05.2.27



 
山形県・庄内地方・庄内町03年3月〜04年12月 05年2月〜06年6月 06年7月〜07年5月 07年6月〜08年12月 
09年1月〜10年1月 10年4月〜11年3月 11年3月〜6月 11年7月〜12月 11年12月〜12年3月 12年5月〜11月
 12年11月〜13年5月 13年8月〜14年7月 
14年8月〜16年8月 16年10月〜17年11月  17年11月〜現在 
 山形県出身芸能人文化人
 

           
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