山形県・庄内平野・庄内町・俳優 佐藤 輝-10
        
佐藤 輝の世界 山形県・庄内地方・庄内町 - 10
        
        
当ホームページ内に掲載されている俳優・佐藤 輝の故郷、山形県・庄内地方・庄内町に関係する部分をまとめました。
        
H O M E | プロフィール | 俳優・佐藤輝 | サンチョ写真館 | 俳句 | エッセイ | てるてる広場 | 縁あってリンク

 
山形県・庄内地方・庄内町03年3月〜04年12月 05年2月〜06年6月 06年7月〜07年5月 07年6月〜08年12月 
09年1月〜10年1月 10年4月〜11年3月 11年3月〜6月 11年7月〜12月 11年12月〜12年3月 12年5月〜11月
 12年11月〜13年5月 13年8月〜14年7月 
14年8月〜16年8月 16年10月〜17年11月  17年11月〜現在 
 山形県出身芸能人文化人
 

2012年5月〜11                 


俳優佐藤輝 撮影 山形県庄内町 平野と鳥海山
山形県庄内町余目から見た庄内平野のシンボル鳥海山(2,236m)。『出羽富士』とも呼ばれる


夢、100周年に向けて !?   

 55年前の小学生の頃にタイムスリップした11月3日と4日、故郷庄内での2日間。

 2日夜に東京を車で出発し、途中山形で仮眠をとってから3日の朝10時過ぎに余目第一小学校に着いた。

 途中の月山道はブナ林が見事に紅葉していてのんびり眺めたい美しさだが、当初4日に記念講演をするだけだった予定に、その前日の3日に校内「秋祭り」で上演する演劇を6年生たちが「自分たちの演劇を、俳優をしている先輩にぜひ見て欲しいと強く希望しているので、何とか・・・」と泣き落とされて予定が増えた結果、着くのはぎりぎりの時間と、眺める暇も惜しんでひたすら走った。

 思ったより早く着いたので5年生の器楽合奏と合唱が始まる前に着席できた。

 先生の指揮を注視する真剣な子供たちの眼差しを見ただけで、今日来て良かった、早く着いて良かったと思った。

 これほどまでに素直に真剣になれることは一生のうち何度あるだろうと思ったら、この子たちの人生の貴重な時間に立ちあえたことに胸が震えて涙が流れた。

 みんなが曲想をつかんだ上で、各パートが他のパートをちゃんと聞きながら息を合わせて表情豊かな音楽に仕上げている。それも、クラブ活動とか限られた生徒ではなく、5年生全員参加でこのレベルまで持っていったことに驚いた。





 6年生の演劇『彦作ぜき物語』は、農地の水不足で悩む農民を救おうと江戸末期から明治時代にかけて私費をつぎ込んで用水路開鑿を試みた地元の佐々木彦作さんの生涯を中心にして、品種改良を重ね多くの銘柄米の親となった「亀の尾」を生み出した阿部亀治さんなど、米どころ庄内の基礎を築いた先人たちを描いている。

 史実とは思えないが、やはり地元出身で幕末の志士となった清川八郎と佐々木彦作が剣術の稽古をして、彦作が簡単に負けるところから始まる導入部といい、三島通庸県令まで登場する劇構成が実に演劇的イメージを広げている。

 作者は誰なんだろうと思いながら、見終わってから聞くと、6年担任の先生だと!?

 2クラス全員を出演させるために一つの役を衣裳は同じにして何人かで演じたり、劇画的な演出の工夫が面白い上に、舞台の背景となる遠くに鳥海山が見える庄内平野の手前にひび割れた乾いた土地が広がる大きな絵も、農家の囲炉裏と板の間の絵も、生徒たちみんなで色塗りして仕上げた、場面の状況がすぐに見て取れる手間のかかった力作。
 もちろん演技も、役の人物と演じている子供の個性が重なり合って面白く楽しんだ。


 4日9時から始まった創立50周年記念式典の後、10時35分から記念講演。
 演題は「そして俳優へ 〜庄内からもらった感動 感性 表現〜」。

 講師紹介を受けて『ラ・マンチャの男』のファンファーレに乗って入場し、そのまま壇上に駆け登って「聞けや 汚れはてし世界よ〜」とドン・キホーテとサンチョの歌に・・・「ともだちのサンチョだ ! 」
 締めにはピルエットターンを入れて、1年から6年の全校生徒と教職員、地区の皆さんで組織した記念事業実行委員会のメンバー、町長さんをはじめ来賓のみなさんの大拍手を受けた。

 晴れたら北の田んぼの果てに見える鳥海山も今日は上半分が雲の中にあって、きっと雪が降っている冷え込み。
 足もとが冷えて風邪をひかれては困るので、椅子に掛けたままで足首を回す軽い運動をしてもらったら、一番前にいる1年生が床を踏みならし始めてそれが2年3年と伝播してしまった。これを無理に止めたら威圧的になってしまうし、・・・うまく乗せながら止めさせるには・・・、踏みならすリズムに合わせて僕もそれ以上の強さで靴音高く両足を踏みならした。子供たちが僕を注目している、さてどっちへ持っていくか・・・、とっさにタップを踏んでいた。

 意識しないで踏んだ、本当に20年ぶりのタップダンス。
 両手を広げて最後のステップを決めてストップモーション、またも思いがけない拍手。


 抽象的なテーマを、如何に身近で具体的な話題でつないで実感してもらうかに努めた。

 壇上でスーツの上着をパーカーに着替え、黒革靴をいつもトレーニングで履いているスニーカーに履き替え、すぐ目の前の1年生の反応を見ながら、飽きそうに見えたら話題を変えて、スペインの写真パネルでラ・マンチャ地方の紹介をしたり、「最上川舟唄」を歌い、祭りの馬方節を歌い、更にはご詠歌まで歌った。こうした要素を生かした『子午線の祀り』の伊勢三郎義盛のセリフを披露。両脚を前に挙げたり横水平に開脚したりしてのジャンプやステップバリエーションも。

 こんな表現の技術も駆使して、観客の心にいつまでも残る感動を持ってもらえるように、これからも世界レベルの演技を追い続ける、と話した。


 後半は、参加を希望してくれた4人の5,6年生と1人の先生に手伝ってもらって、即興で、芝居の稽古の本読みから読み合わせ、台本を持っての荒立ちまでを見てもらった。

 紙に印刷された台本の文字が声になり、それぞれ感情と個性を持った役の声になり、さらにその役が立ち上がって舞台へと立体化していく芝居作りの過程を知ってもらいたかった。

 台本の『腐れ風』は地元庄内の昔話を30年も前に僕が脚色して劇団動物園が公演した『むかし・まつり』の中の短編。
 庶民のユーモアやバイタリティーがあふれている。こうした伝承文化を新しい形で現代によみがえらせようと提示をした。

 手伝ってくれた5人の参加者にまず感心した。
 台本を渡されてすぐに本読みを1回聞いただけで、次にはト書きを頭に入れながらそれぞれの役のセリフを読み合わせて次は立ち稽古ができた。
 それに舞台のセットの説明をしていないのにその関係をそれぞれが考え、お互いにその考えを感じ合いながら、指示を待たず自主的に切っ掛けや動きまでも作って荒立ちをし終えた。
 想像力とその世界に入り込む集中力無しではできないことをやってくれた。素晴らしい !
    
 また客席の人たちも楽しみながらみんなが参加してくれて、同じ台本を3回繰り返したのに、3回とも新鮮に反応し喜んでくれた。

 今までは小中学校の教師や元教師について、一般社会に生きているとはとても思えない隔絶された感覚の持ち主が多いと感じることが多かったが、今回の講演に関してはその考え方を全く改めさせられた。

 先入観を持たずに社会人として普通の会話ができる校長先生の豊かな許容量と持っている雰囲気が、先生たちの素直で穏やかな個性とポジティブなエネルギーをを引きだして気持ち良い学校の空気を作っていると感じた。その先生たちから指導を受ける子供たちは何と幸せなことだと思う。

 講演を聞いてくれた多くの方々から「楽しくて素晴らしい講演でした」との身に余る感想をいただきましたが、金文字に輝く人生訓も格言も入らない講演であっても、僕のやり方でやらせてくれた実行委員会と学校側の皆さんの受け入れ態勢があってのこと。その態勢がしっかりと出来上がっていたからこそ、音響や小道具の準備も、語りかけへの会場全体の反応も、即興短時間での芝居立ち上げへの積極的参加も、見事に実を結んだのでした。

 それが、1時間の講演予定が25分も延びたのに子供たちが席を立つことなく最後まで聞いてくれるありがたい結果をも生んだと思う。
 一番前に座っている1年生たちが、最後まで目を輝かせて食いつくように話を聞いてくれたのは本当に嬉しかった。

 校長先生から心のこもった謝辞をいただき、美しく豪華な花束を頂戴した後に、びっくりサプライズの記念品をいただいた。何と、地元庄内で収穫されたばかりの山形県のスーパーブランド米「つや姫」の新米 ! ! それも、嬉しさ極まる20キロ ! !

 3年前から販売されて以来連続特Aの最高評価、大きく、艶良く、香り良く「冷めてもうまい ! 」と評判の特別栽培米。これを食べたら言葉が出なくなる本物の美味しさで、今回も地元で買って帰ろうと思っていた新米。

 「会いたかった ! 会いたかった ! 会いたかった ! イェ〜イッ ! ! 」と嬉しく、重〜〜く抱きしめた。





 講演終了後に校長室で片付けをしていると、6年生全員が元気よく入ってきて、「今日はありがとうございました。自分たちが中庭の畑で育てた大根です。お礼にどうぞ」とずしりと重い袋をプレゼントしてくれた。
 丹精込めて育てたに違いない、青々パリパリと元気な葉をつけて丸々と太ったとれたての3本の丸大根。ウオオゥ! 素晴らしい大地の恵みと子供たちの思いに感謝して、袋を抱きかかえながらみんなと握手した。未来のエネルギーをいただいた。ありがとう ! !

 この子たちが自分の子や孫たちとともに安心して100周年を祝うことができるためにも、原発事故と放射能に脅える日を1日でも早く終わらせることが僕らの世代の義務だと強く思った。

 祝賀会での祝辞やスピーチを聞くと、学校と地域の結びつきがとても深いことを感じた。





 教育現場に余裕がなくなったといわれる今の時代、こんなに演劇や音楽などの創作表現活動が自分の故郷で積極的に行われていることを知り、表現を仕事とする者として心から喜んだ。
 想像力と表現力は人のコミュニケーションを活発にし社会生活を豊かにする原動力。文化を育て経済活動をも活発にする。故郷庄内が元気になる。

 昭和30年代、合併したばかりの故郷の町には小学校が6校あって、その6校による「連合学芸会」という素晴らしい行事があった。
 各学校の学芸会で6年生が作った6本の演劇を、ある1校の講堂に持ち寄って上演し、6校の6年生全員が6作品を一緒に楽しむものだった。

 そこで僕は、演劇には多様な表現があること、町内には他にもいくつもの学校があること、中学校で一緒になる同じ年の仲間が大勢いることを知り、社会の広がりを実感した。ぐんと視界が広がったように感じたものだった。

 現在積極的に行なわれている創作表現活動の上に「連合学芸会」を取り込んだら、更なる発展形を見られるように思う。
 お手伝いできることがあったら、また頑張ります。

 みなさんで講演を支えてくださってありがとうございました。
 僕にとっても、思い出に残る素晴らしい講演になりました。

                     輝 ☆彡 2012.11.10




■2012年11月 佐藤 輝 講演

山形県庄内町立余目第一小学校で講演
そして俳優へ
庄内からもらった感動、感性、表現

11月4日(日) 午前10時30分

今年創立50周年を迎えた
故郷余目第一小学校の記念式典で佐藤 輝が記念講演をします。

 
四季の変化が大きく自然の美しい故郷庄内地方独特の素晴らしさと、
庄内からもらった感動、育まれた感性、夢を持ち、想像し、表現し、
人とともに生きる喜びを分かち合えることのありがたさを語ります。
また即興で、故郷の昔話を台本にした芝居作りに挑みます。
希望される方は学校にお問い合わせ下さい。


山形県庄内町立余目第一小学校 
山形県東田川郡庄内町余目字南田105-1
TEL. 0234-43-2625



忘れていた夏休み帳 ! !  

 書こうとする意志と写真はあったのに、中々行動に移せぬままに日を重ねてしまって、11月目前となった今、夏休み最後の日の子供の心境に。

 一気にまとめて・・・・。



石井ふく子プロデーサーの疎開先 

 去年放送されたTBS『居酒屋もへじ』のプロデーサー石井ふく子先生が先月9月のお誕生日に出版された『ありがとう またね・・・』を面白く読ませていただいた。

 その中に書かれてあった先生の疎開先は、僕の生家から車で1時間少しで行けるところ。帰省の折りに訪ねてみた。





 直径約20メートル、水深が3.5メートル、湧水だけが水源で冷たく澄み切っている。

 この神秘的な光を湛えるエメラルドグリーンの池は、山形県の西側、日本海に面した庄内平野が北の鳥海山と接した遊佐町箕輪地区のうっそうと繁る山すその林の中にある丸池神社の御神体「丸池様」。 



牛渡川には清流にしか育たない梅花藻(バイカモ)の白い花。直径5ミリほどの清楚な8月の花。


 鳥海山の山すそを巡って「牛渡川(うしわたりがわ)」の清流が迸るように流れている。
 鳥海山の雪解け水が地中にしみ込み、伏流水となって岩のすき間などから地上に噴き出して川となっているのが牛渡川。

 秋にはこの川を目指して日本海から鮭が遡上してくる。その流れの途中、「丸池様」の杜を背にして箕輪の孵化場があって、鮭の人工孵化がおこなわれている。

 牛渡川は静岡県の柿田川にも匹敵するとして近年とみに話題になっている清流で、機会があったら一度は行って見たいと思っていた川だった。





 箕輪孵化場の駐車場を起点にして牛渡川、丸池様を巡る散策コースが設定されていて、県内外から多くの客が訪れていた。
 清澄な空気の中を時折蝶が舞い、小鳥の囀りと清流の水音しか聞こえない静かで穏やか時の流れに身を置くと、別天地にいる心地良さ。もっと早く知っておけば良かったと思ったステキな土地。

 石井ふく子プロデューサーは昭和19年に、案内板右下の山沿いを南下した所にある箕輪の集落に疎開し、そこから、案内板外左方向(牛渡川下流)の吹浦(ふくら)に通って、代用教員や役場の戸籍係の仕事をしたと言う。また、ここでは正月のお雑煮に鮭の生いくらを入れていたと『ありがとう またね・・・』に書いている。

 石井先生のお母さんが風に煽られてその牛渡川に架かった丸木橋から落ちたエピソードも本には書いてあるが、先生には思い出が多く残る懐かしい土地のようで「一度、あの村にロケで行ってみたいと思っています。」と記している。

 牛渡川の清流と「丸池様」の杜を背景にした心温まる箕輪のドラマを、ぜひとも石井ふく子プロデューサーの手で作っていただきたいものだと思った。



数十年ぶりの日本海庄内浜 

 ここは生家から西に10キロの庄内砂丘にある酒田市浜中海水浴場。すぐ南側に庄内空港があり、さらに南は鶴岡市の湯野浜温泉へと続いている。

 子供の頃はここから5キロほど北の十里塚海岸で兄達が引率した村の中学生のキャンプがあって、毎年泊まりがけで陣中見舞いに行った。
 もう60年も前のことだから日本中が貧乏の時代。食事は御飯におかず代わりの生味噌、地元の農家から分けてもらったトマトはご馳走、地引き網を引くときにみんなが手伝ってそのお礼に分けてもらった小さな鯵をくし刺しにして焼いたり天ぷらにしたのは大ご馳走だった。それでも光りあふれる心ときめく夏休みだった。砂丘は足裏が焼けるほど熱く、日本海は底が見えるほど透き通っていた。

 昭和50年代からは自分で買った家形のテントを持って帰省し、度々この浜中で家族に母や兄姉たちを加えてキャンプを楽しんだ。その後、日本海側の拉致被害がその頃に集中していたことを知って、肝を冷やしたものだったが。

 いつからか夏の舞台出演が増えたこともあって、気が付くと山形の日本海には縁遠くなっていた。






 今年2月に、生家が学区に含まれる小学校の創立50周年の記念講演を11月にすることを引き受けてから、少年時代に自分の庭のように走り回った庄内地方の各地を再確認し今の子供たちの生活する様子を知りたいと思い、3月と5月に帰省した。
 そして夏、8月の庄内浜へ。

 箕輪を後にして遊佐町吹浦から南に向かう国道は、生岩ガキもラーメンも我慢してわき目も振らずに走ったのに夏休みの晴れた日曜の午後にかかってしまい、酒田あたりで大渋滞。
 かつてお世話になったことがある海の家でのお昼を楽しみに腹ぺこで浜中の海水浴場に着いたのは午後2時。駐車場には今まで見たこともないほど車が駐車している。なのに、急いで車をおりて砂浜を見ると、希望の星の海の家は屋根を外されて骨組みだけになっていた・・・。

 気を取り直して、簡単に張れるからと20年前に買った2代目テントを汗だくになって初めて張った。ほっと一息ついて。

 ああぁ! 庄内浜! ! 日本海だ! ! !

 潮の流れのせいか、少し濁っていて底の水が冷たく感じられるが、正に故郷庄内の日本海だ。

 童心に返って、持ちだしたブーメランを海に向かってほうり投げる。気持ち良くUターンして足もとに戻ってきた。

 人影がまばらになった砂浜に足跡を印しながら孤独なかもめが歩いてゆく。

 日が西に傾くと海一面に反射して、金砂をまき散らしたように黄金色に輝いた。
 ああ、この光る海。32年前の台本に別世界に誘う光だと書いたことを思いだした。



蔵王温泉と山形夜景 

 夜、蔵王温泉の共同浴場「川原湯」に。

 普段は透明なお湯なのに、時折誰かが掻き混ぜて湯の花を拡散させて白く濁らせていることがあって、天変地異の前触れかと入浴にきた客が驚くことがあるらしい。
 熱い源泉が浴槽底の簀の子の間から噴き出している。
 成分がじわぁっと体にしみ込んできて、帰りには肩が軽く感じられる。

 温泉から山形市街に帰る西蔵王高原ラインでは道にたたずむ大きなフクロウと目を合わせた。その先の神尾(かんの)から西のテレビ塔方向に入った丘にある「西蔵王公園 展望広場」からの山形市街の眺めが素晴らしく、来る人来る人が歓声を上げている。

 山形の夜景の美しいこと。空気が澄んでいて透明で、まるで宝石をちりばめたように光り輝いている。





 この写真は夜10時半ころに撮影したが山形は民家の消灯が早い。もっと早い時間だったら点いている明かりが多かったに違いない。それでもこの宝石箱。



 翌朝、蔵王登山に向かう途中に昨夜の西蔵王公園 展望広場に寄った。
 朝日の中に、山形市を中心にした村山盆地の広がりが鮮明に見えてびっくりした。






蔵王お釜から熊野岳 

 展望台から西蔵王高原ラインに下る坂道の眺めは清里高原を彷彿とさせてくれる。 洒落た赤い屋根が、高原の澄んだ緑の中に鮮烈なインパクト。


 蔵王お釜のエメラルドグリーンも、深い憂いを湛えて美しい。
 雲の流れで、その濃淡が刻々と微妙に変化する。見ていて飽きることがない。





 蔵王のお釜には・・・何年ぶりか思い出せない。30年も前だったような気がする。
 その頃は火口湖の水際まで降りることができたが、今ははるか上に丈夫な柵が連なっていて降りることは無理のようだ。

 北の蔵王連峰の主峰熊野岳(1,841m)に向かおうと歩き始めたところで急にガスがかかってお釜は霧の中。

 馬の背から熊野十字路への上りにかかるあたりから、やはり急にガスが晴れてぐるり見晴らしが利いた。





さっきのガスでほとんどの登山者が下山したのか、貸切り状態の熊野岳で赤とんぼと駒草の歓迎を受けた。
 例年ならとっくに終わっている駒草の花が、今年の大雪が遅くまで残ったせいで開花がおくれ、今なお咲き残っていた。
 何という幸運。





 熊野岳山頂には、山形県上山市出身で文化勲章受章者の歌人斎藤茂吉の歌碑が、生家のある西方向を向いて立っている。
 「陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ 茂吉」



 その斎藤茂吉の故郷から送られてきた、これが何とプラムとは!?
 直径が10センチもある大きさの見た目以上にスゴイのはその甘さ。プラムの味のイメージを完全に覆す、得も言われない深い上品な甘み。脱帽した。名前は「月光」。

 


 
 上山温泉の「日本の宿 古窯」の女将さんが公演の激励のために送って下さった。
 余りの美味しさに表現する言葉を捜せずに、お礼状を書きそびれてしまった非礼をお赦しください。
 いつも励ましをいただき、心からありがたくおもっております。

 わが故郷にただただ感謝あるのみ。

                     輝 ☆彡2012.10.31


故郷山形、感動の今と過去 サクランボ「紅秀峰」と「縄文の女神」 

 日本一のサクランボといえば山形の「佐藤錦」と誰もが答える、今やこれが日本の常識。
 新品種として世に出た当時は栽培が敬遠されて絶滅の危機に瀕したなどとの語り伝えは信じがたく、色鮮やかで大きく甘い !

 しかし「佐藤錦」は6月で最盛期を終える。

 「佐藤錦」が一段落した7月に、知る人ぞ知る「紅秀峰(べにしゅうほう)」の販売が解禁される。未熟で味の悪い実が出荷されないように山形県が年ごとに解禁日を決めている、1991年に「佐藤錦」を母に「天香錦」を父にして生まれた、それだけ力を入れている新しい品種。

 佐藤錦の1.5倍、直径が3センチもある大きさ。紅色も濃く、ズシリと舌に絡みつく甘みも濃い。思わず叫びたくなる美味しさだ。





 ちょっと先月中旬にさかのぼるが、山形県上山市にある全国屈指の温泉旅館「日本の宿 古窯(こよう)」から、かみのやまの親善大使として地元で生産されたその「紅秀峰」がやってきた。もう大感激。
 都内のスーパーでは見当たらないようだ。気軽に買える日は来るのだろうか?


 今から4500年前の縄文時代中期の山形にも、こんなに独創的で美的レベルの高い土偶を作った人たちがいた ! !
 そう思って眺めながら感激したのは、山形市の霞城公園(山形城址)にある県立博物館で行われている企画展「豊饒と祈り - 縄文女神たちの宴と古墳時代人の想い -」。


  
  博物館入口に立つ4倍以上に拡大された木製の「縄文の女神」。なかなかの力作。

  
  


 山形新幹線の終点がある新庄市のすぐ南に接した舟形町の西ノ前遺跡から1992年に出土した高さ45センチの土偶は今年国宝に指定され「縄文の女神」と呼ばれている。

 うっとりするほど素晴らしく美しい。その洗練された美しさは、広く世界に知られた彼のエーゲ海文明の女神たちにも匹敵すると僕は思った。

 4500年前に自分の手で土をこね、自分の理想とするこの美しい形に仕上げた人がいた !

 何という名前だったのか。その人はどんな人たちとどんな暮らしをし、どんな思いを込めてこの土偶を仕上げ、どのようにして一生を終えたのだろう。
 そうしたことに思いを巡らしながら土偶を見ていると、土偶を中心にして作者や集落のたたずまいが目の前に浮かび上がってくる。
 想像力をかき立ててくれる、素晴らしい展示を楽しんだ。

 9月17日までの展示、ぜひぜひ堪能していただきたい !

                     輝 ☆彡 2012.8.15


くちなしの香の蠱惑 
 
 ポッと音を立てて咲いたようなくちなしの純白の花。

 夜の闇を蠱惑の芳香で満たしている。





 17日に咲きだしてから毎日新しい花を開いている。

                     輝 ☆彡 2012.6.30


不忍の池をめぐりて・・・美と食を 

 上野の東京都立美術館の改装工事が終わって3年ぶりにもどって来た日本板画院展を17日に見に行った。

 美術館入口に展示してあるこの大きな銀の玉を見ると、ついつい幼心が刺激されて、行くたびにこんなポーズをとっている。

               



 美術館にはこの後ろにある長い階段を降りないと入れなくて、足腰の弱い人は難儀をしていたが、改装によってここにエスカレーターが取り付けられていた。

 山形県長井市在住の版画家菊地隆知さんとは、菊地さんが東京で初めて個展を開いた時に、僕が山形で持っていたラジオ番組の中で取材をしたことが切っ掛けで、以来39年のお付き合いになる。新宿コマ劇場のすぐ近くにあった、1階がたばこ屋で地下が画廊の「カドー画廊」を鮮明に思い出す。


俳優佐藤輝 上野東京都美術館板院展 菊地隆知「はつゆきだ」


 この個展の会場で紹介されたのが、やはり版画家の井上勝江さん。
 その後、日展で受賞した歌手のジュディ・オングさんの版画の先生としても知られる井上さんのテーマは「花」。個展でも板画院展でも、胡蝶蘭や罌粟、カーラーなど、黒墨単色刷りで大胆な力強い作品が存在を示している。
 

俳優佐藤輝 上野都美術館 板院展 井上勝江
ウィリアム・モリスによるヤグルマギクの図


 井上さんが企画した、日本板画院を創立して初代代表となった棟方志功さんをはじめとする創立期メンバーの足跡を紹介したコーナーが面白かった。
 企画した井上さんの熱意と行動力が実を結んで、とても見ごたえがある。


 美術館を出て、谷中から根津へ。

 去年出演したTBSドラマ『居酒屋もへじ』の舞台となった地域。撮影前の春に、演技の参考に訪れてぐるぐる歩きして以来だ。
 路地のあちこちに『もへじ』の雰囲気が漂っていて、登場人物、共演者の面影が浮かんでくる。現実に虚構が重なっているのか、虚構に重なって現実が見えているのか、自分でも分からない不思議な感覚。

 緑が美しく茂っている日本画の巨星横山大観の旧居「横山大観記念館」の門内をちょっと覗かせてもらって一息ついてから、不忍の池の南東角へ。ここで不忍通りを渡って、うなぎの老舗「伊豆栄」を目指した

 『居酒屋もへじ』の僕の役は、常連客のフジモト。で、仕事はうなぎ職人。
 役がうなぎ屋と決まって、うなぎのさばき方や焼き方、職人のタイプなどを調べ、仕上げにうなぎを食べ歩く実習をした。

 それ以後、上野のうなぎ屋の話をすると耳にする「伊豆栄」の名前。僕はまだ行ってなかったから気になって仕方のない店名だった。
 それで、上野に来たこの日がチャンスと、「伊豆栄」を目指したのだった。

 不忍池を一望する7階ラウンジから青い瓦屋根の弁天堂などを眺めていると、うな重が運ばれてきた。

 蒲焼きのいーい香りが鼻腔をくすぐりながら胃袋へ直行 ! ンもう、たまりませんッ!

 うーむゥ、・・・んまい! 本当に、んまい! うなってしまった!





 店から出てきてのこの顔。うなぎをつかんでいるフジモトの顔になっている (苦笑)

                     輝 ☆彡 2012.6.30


上を向いて・・・! ! 

 今年は福島・三春の滝桜にも多くの花見客があって、滝のように流れる枝垂れ桜を見上げたという。滝桜は喜んだに違いない。良かった ! ! 


俳優佐藤輝撮 福島県三春滝桜
この写真は2007年4月20日撮影。ニュースで見た今年の桜も枝ぶりはこの年とほぼ同じだった。


 21日にはわが家の玄関前の廊下に折畳み椅子を持ちだして金環日食を仰ぎ見る。
 あいにくの曇り空と言われたが、フィルター代わりの程よい曇り空。写真も上手く撮れた。  東京では過去の173年と次に見られる300年後の間の今年となったそうな。


俳優佐藤輝撮影 2012金環日食


 22日は雨天オープニングになってしまって待ちに待った人たちに同情した、東京スカイツリー開業。

 23日は晴れやかな2日目のスカイツリーを見上げた。
 夜には、展望台で写真を撮っているストロボの光が見えた。宝石をちりばめたような東京の夜景を見て、入館者はどんなに感激していることだろうか。


俳優佐藤輝撮影 東京スカイツリー


 スカイツリーに隣接するショッピング東京ソラマチ31階には、僕の故郷山形県庄内地方の食を広めているイタリアレストラン「アル・ケッチァーノ」のオーナーシェフ奥田政行さんがプロデュースする「ラ・ソラシド フードリレーションレストラン」もオープンした。

 その「アル・ケッチァーノ」の直営店で、銀座1丁目の山形県物産館2階にあるレストラン「ヤマガタサンダンデロ」のオープン3周年記念ランチが先月30日にあって、奥田シェフが腕をふるった新鮮な庄内の春の味を楽しんだ。


俳優佐藤輝 ヤマガタサンダンデロ 奥田政行シェフ


 定評のある高畠ワイナリーのシャンパン(スパークリングワイン)がまた美味い。そんなに飲んだ訳でもないのに、昼酒は心地良く、回る。

 奥田シェフとは1年ぶりの再開で、スペインでの世界料理大会のことやマドリード料理のコシードのことなどを楽しく話した。


俳優佐藤輝 羽黒山


 5月4日は大事な記念日で、羽黒山参拝の日。
 小学生の頃からもう何十回も登ってきた羽黒修験の霊山。


俳優佐藤輝撮影 羽黒修験根本道場羽黒山荒澤寺


 月山寄りの自動車道入口近くにある羽黒山荒澤寺を初めて訪ねた。
 ここは羽黒山奧之院で羽黒山修験の根本道場。雪の残る境内には「是より女人禁制」の大きな石碑が建っていて、霊気を感じる。


 山形から帰ってきたら、美しい文字の丁寧な手紙が届いていた。
 35年前に仕事で知りあってお世話になり、以来何かにつけて応援していただいている神奈川在住の田北さんからの手紙だった。紹介させていただく。

前略 御免下さいませ。
“演劇界”四月号を読んでいて信じられない広告ページを見ました。
八月の帝国劇場“ラ・マンチャの男”の上演広告??!
“ラ・マンチャの男”に何故、佐藤サンチョの名が無いのですか?
どうして? 信じられません。本当ですか? あのサンチョは佐藤さんのものです。前回までの十年余りのサンチョ、誰方も、サンチョは佐藤さんで納得し、専門家もお客様も賛成して下さっていると、私はいつも批評を読む度に嬉しく、有難く、幸せに思っていました。
若しかして理由はご健康上? スケジュール? これなら、心配ではありますが諦めます。
こんな手紙を差し上げるのは不躾、失礼かと存じますが伺わずにいられません。悲しいです。 (今度サンチョを演じられる)俳優さんはどの様な方ですか? 全く存じませんでした。余りに口惜しいので「私は観に行くぞ」とさえ思っています。良くない考えでしょうか。
              四月二十八日
                            田 北

 田北さん、そんなに心配していただき、そこまで言っていただき、役者冥利に尽きます。有難うございます。
 僕がサンチョ役で出演しないことにこんなにも衝撃を受けられた方がいることを改めて知って、経緯をきちんと説明しないでいたことを反省しました。

 僕が出演していた作品で、その後も公演はされているのに出演しなくなった作品は『マイ・フェア・レディ』や『屋根の上のヴァイオリン弾き』など、いくつもの作品があります。
 次に出演する作品は「てるてる通信」やホームページなどで案内させていただきました。でも、出演しなくなった作品については、一々の案内や説明をしないでいました。
 それでも今までは特に問題は無かったのですが『ラ・マンチャの男』のサンチョについては、次の公演への出演を期待して皆さんが待って下さっていたのですね。

 田北さんへの返信を兼ねて、『ラ・マンチャの男』を愛し、僕を応援してくださる皆さんに不出演の説明をさせていただきます。

 2008年4月の『ラ・マンチャの男』帝劇公演に向けた稽古の時点ですでに、次回公演には僕はサンチョとして出演をしないことが決まっていました。後に「次からはイベントだから」との説明を聞きました。
 『ラ・マンチャの男』という空前絶後の名作がイベントのダシにされる?! 僕は耳を疑ったが、その方針だと言われれば一介の俳優には言葉が無い訳で。
 そう言えば、上演回数でギネスブックに載ることが夢だと聞いたことを思い出した。
 上演回数を増やすイベントに、他の出演回数が話題になっては面白くないということもあるのでしょうか。
 出演300回を目前にして2001年2月25の千秋楽がアルドンサ最後となった鳳蘭さんはカーテンコールで「300回は演じたかった ! 」と挨拶しました。僕はその言葉にツレちゃん(鳳蘭さん)の万感の思いを感じてドキッとしました。
 (アルドン= ALDONZA スペイン語ではZAではなくと発音します。)
 
 1965年にリチャード・カイリー主演でブロードウェイで初演された『ラ・マンチャの男』の舞台を観て感動した草笛光子さんが、東宝演劇部の総帥菊田一夫さんに「日本でもぜひ公演を! 」と強く働きかけて1969年に実現した日本初演。
 初演の80回を草笛さんはアルドンサ役で浜木綿子さん、西尾恵美子さんとトリプルで演じられ、70年再演の名鉄ホール、日生劇場、73年日生劇場を単独で93回出演された。

 草笛さんたちの熱い働きかけから始まった日本公演も、作品の評判は上がっても客の入りには中々結びつかなかったと聞きました。

 89年の梅田コマ劇場公演から6年の間が空いた95年の青山劇場公演に、鳳蘭さん、カラスコ博士の浜畑賢吉さんと共に僕のサンチョ役出演となった。
 ツレちゃんとの信書の場面は客席がドッと沸き上がるような笑いの渦に包まれた。そしてこの頃は入場者が増えて、客席は満杯続きだった。
 オリジナル演出を引き継いで作品(舞台)作りに無理が無く仕上がりも客席の反応も上々のこの時期にサンチョとして出演できたことは、俳優人生で最も誇らしく嬉しいことです。

 キャストが代わって、それに合わせてサンチョのキャラクター、台詞まで変えられた時には、『ラ・マンチャの男』という作品そのものが冒涜されているようで辛かった。
 当然、以前のサンチョとは違う、精彩を欠く役柄になっているので、客席からは「体調でも悪いのか?」と思われたらしい。
 それまでは公演のたびに初日には必ず観ていたが、もう『ラ・マンチャの男』にはさよならしたと言うお客さんの声を聞くのが哀しかった。

 『ラ・マンチャの男』は、夢と現実、人間の生きる望みをテーマにして、想像力をかき立てる舞台のテクニックを駆使した実にスケールの大きなずしりと重みのあるエネルギー溢れる作品です。オリジナルの演出はそのように作っていました。
 劇中でセルバンテスが語る「一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生にただ折合いをつけてしまって、あるべき姿の為に戦わない事だ。」(森岩雄・高田蓉子共訳)はこの作品のテーマともいうべき大事なセリフで、僕自身大好きな言葉です。『ラ・マンチャの男』の、作品としての「あるべき姿」とは何かを求めながらサンチョを演じた13年間でした。

 しかし、もう、一出演者としてベストを尽くすという演技だけの努力では、純粋に作品を愛して観に来て下さるお客さんに申し訳ない気がしていました。看板やパンダ見物のレベルで『ラ・マンチャの男』を見に来る人が多いのかなとも思い始めていたし、本番舞台の立ち回り中に立ち位置がいい加減になって、危ないなと感じることもあり、2008年4月30日の帝劇千秋楽でサンチョ484回を記録して僕の出演は終わりました。

 今後は作品本来のそのパワーを持って、永く上演され愛され続けることを、この作品世界に生きた一人として切に願っています。

 以上の説明で納得していただけましたでしょうか?

 と言うわけで、健康上でもスケジュールの問題でもありません。
 以前と同様というよりはそれ以上に、毎日のヴォーカル、週4,5日のトレーニングで体はピンピン、健康そのものです ! ギター弾き語りの練習も再開しています。ご安心ください。

 これからも俳優として前向きに前進し続けます ! !
 前を向いて、上を向いて ! !

                     輝 ☆彡 2012.5.26





俳優佐藤輝 7歳 山形県庄内町 余目八幡神社
6歳、余目八幡神社祭り。花持ち




         

 
山形県・庄内地方・庄内町03年3月〜04年12月 05年2月〜06年6月 06年7月〜07年5月 07年6月〜08年12月 
09年1月〜10年1月 10年4月〜11年3月 11年3月〜6月 11年7月〜12月 11年12月〜12年3月 12年5月〜11月
 12年11月〜13年5月 13年8月〜14年7月 
14年8月〜16年8月 16年10月〜17年11月  17年11月〜現在 
 山形県出身芸能人文化人
 

Copyright©2003-2022 TERUTSUU All Rights Reserved 記事・写真の無断転載を禁じます。