2017年11月〜2018年9月
山形県庄内町余目から見た庄内平野のシンボル鳥海山(2,236m)。『出羽富士』とも呼ばれる。
花の山 鳥海山2,236mへ
今年8月11日、山の日。
故郷の山、出羽富士・鳥海山。
やはり長期予報と毎日にらめっこ。
前日までの雨がこの日の朝には曇りに変わるとの予報を信じて、鳥海ブルーラインの鉾立駐車場でスタンバイ。
暗く重かった雲がようやく9時頃から少し明るくなったし、これより遅い出発になったら山頂小屋に着く時間が遅くなる。
人生初めてのポンチョ姿になって、9時半に小雨降る登山口に。
わが登山人生で初めての雨天登山となった。
展望台の手前で雨が止んだと喜んでポンチョを脱いで登り始めたら、またもバサバサと降ってきた。あわてて、また着込んだ。
このコースは36年前に下ったことはあったが、登るのは初めて。
行く先も回りもガスの中、次々と足元に現われる可憐な花に励まされて1歩1歩を進めることができた。
11時を過ぎて、魔法使いが杖を振り回したかのように一瞬にしてさあっとガスが晴れた。
陽が差す。
回りも先の山も緑鮮やかに見通しが利く。
ポンチョを脱ぎ、汗でびっしょりのシャツを脱いだ。風が気持ち良い!
沢水の流れのそばに、ニッコウキスゲの鮮やかな黄色の花が雨の滴を身にまとって輝いている。
このあたり、まだ雪が残っている。
ここが最初のポイント。
上にある雪渓の雪解け水を集めた流れを渡る「賽の河原」。
「賽の河原」からゆったりゆったり、大きな雪渓を振返りながら50分ほどで、目の前に鳥海湖が広がる小浜小屋に到着。両手を広げて深呼吸。
鳥海湖から東を見れば、ルートの先に、外輪山に包まれて、黒々と大岩が積み重なった山頂の新山が望める。
その尾根道をたどれば扇子森を経由して御田ケ原へ。
時々南側からガスが吹き上がって来るので庄内平野は見えないが、このあたりもお花畑が続いている。
よくもまあこの高山に、これだけの石を運んで綺麗に並べたものだと、尾瀬の木道とはまた違った感懐をもつ長い石の坂道を下れば、今度は登る八丁坂。
そして、先の七五三掛(しめかけ)に至ると、真っ直ぐは、時には大岩をよじ登らなければ進めなくなる文殊岳から外輪山を進むコースと、左に折れて外輪山から千蛇谷への沢をジグザグに下って雪渓を渡り、外輪山内側の絶壁を谷越しに右手に見ながら山頂小屋を目指す千蛇谷コースに分かれる。
七五三掛で外輪山から一気に千蛇谷の底の雪渓に下る。
外輪山内側の絶壁を右手に見ながら
左側の谷沿いの道を山頂小屋を目指して上る。
ほとんど無言で、その時間に耐えきれなくなってたまには自分を叱咤激励するうなり声をあげ、また黙々と登る。
山頂小屋手前のジグザグの登りは、そこにいて夕陽を眺めながら楽しんでいる人たちの顔は見えているのに、登っても登っても登り切れないもどかしさ。
それでも無事に登り切った。
振り向くと、七五三掛から急坂を下り、雪渓を横断して谷の反対側に渡り、ただただ登ってきた千蛇谷が西日の陰をつくっていた。
山頂の御室(おむろ)小屋に到着。
受付で、先ずは、到着が遅くなったことを謝った。
遅く着いた分、寝場所は2階の一番奥に。
星が濃紺の空全部に広がって澄み切った光できらめいている。
見とれる間もなく、体が震えて止まらない。冷え込んでいた。
満天の星。
垂直のハシゴを登って、足元はふらつくし、梁に何度も頭をぶっつけて、みんなの寝言とイビキを子守歌と思い込むようにして、いつのまにかぐっすり眠った。
☆
明けて、8月12日。快晴。
朝日を受けて西側の日本海に、鳥海山の影が吹浦漁港を包み込むようにしてくっきりと伸びた。
影鳥海。
今朝も冷え込んでいて、まだ日陰になっている神社本社前の広場では体が凍える。
母校、酒田東高校の校章にデザインされている鳥海山の固有種チョウカイフスマの小さな花が、可憐に岩の隙間に咲いている。
高校時代、仲間で万助小屋まで行き1泊したことを思い出した。
その時の友人たちの顔も。
忘れていたが、あの時が最初の雨中登山だったことも。
朝食。
昨夜は食欲がなかった。今朝は卵掛けご飯にしたらするすると完食。
持参のチーズでカロリー補給。
さあ、いよいよ36年ぶりの新山山頂へ。
御室小屋背後の溶岩の岩山を登る。
途中振返ると、ぐんと視界が広がって、白い屋根の大物忌神社本社、社務所、山小屋の御室小屋、食堂などの建物が足元はるか下になり、さっきまでは南側の外輪山に遮られて見えなかった月山山頂も見えるようになった。
岩山を登り切ると、今度は急な北側の岩坂を下りに。
両側の切り立った大岩の間の狭い底まで下りきる。ここが胎内くぐりと呼ばれるポイント。
見上げると、先の岩山の天辺に登山者の姿が。
あそこが鳥海山山頂だ !
鳥海山2,236mの新山に登頂! !
快晴の山頂に立てばぐるり360度の眺望が開けて身震いした。
北の彼方、雲海の上にぽつんと岩木山の頂。
東も南も、東北地方の山々が見事に眺められた。
南西に目を転ずれば、酒田市街を中心に最上川横切る緑一面の庄内平野が広々と広がり、風力発電風車群と庄内浜の海岸線がくっきりと南に続いてその先には粟島の島影までが見える。
登山者の人影が小さく稜線に見える外輪山越しには、遥か雲海に浮かんでいる月山、葉山、その左奥に蔵王山、月山の先には朝日連峰から飯豊連峰まで続いている。
もっと先にうっすらと見えているのはひょっとして磐梯山か安達太良か。
さっき通った胎内くぐり、こんなに大きな岩の間の細くて狭い落差の大きな岩の裂け目ルートだったんだ。
帰りの下りルート途中で眺めた、外輪山から千蛇谷へ落ちる断崖の迫力にもしばし目を見張った。
新山への往復2時間に満足したところで、さてこれから千蛇谷を下って帰路につく。意気軒高。
この千蛇谷ルートは、紫色のアザミの花が道の両側から登山者を歓迎しているように沢山咲き、湯の台口ルートにあって「あざみ坂」と名前が付けられている急坂よりもアザミの花が多いと感じられる、アザミの道だ。
2種類の花が見られ、この赤黒い花は鳥海山の固有種・チョウカイアザミ。
下向きに花を咲かせ、ぐっと頭をもたげている姿に、僕は雪深い冬を耐え忍んだ力強いエネルギーを感じてとても好きな花だ。
こちらがウゴアザミ、つまり羽後アザミ。
鮮やかで明るい紫色が快晴の太陽に映える。
千蛇谷から七五三掛に登る手前の雪渓。
ここまで来たら下山の半分は来たようなほっとした気分になる。
外輪山に登る途中の休憩台で一息。
御浜への道が見えてきた。
七五三掛から八丁坂を下る。
このあたり、左手に、昨日はガスがわいてきて見えなかった庄内平野を見通しながら眺めるお花畑が楽しくて、ついつい足を止めてしまう。
鳥海湖の背景には矢張り、故郷の庄内平野があって欲しいし、手前には高山植物の花があって欲しい。
御浜小屋と鳥海湖の前に立って、新山からここまでの下山ルートを、あらためて振返る。
御浜から賽の河原に下る途中、西日を浴びて光り輝くチングルマの綿毛に感動。
賽の河原の上の雪渓はまだこんなに残っている。
雪渓からの雪解け水が作っている小さな流れを渡る。
綿毛になる前のチングルマの花。
白い花火のような形のカラマツソウの花。
登山口から舗装道路を散歩気分で登って来られる鉾立展望台。
ここまで来たらもう一息。
新山から御浜小屋、名曽渓谷尾根沿いのルートが一望。
目の前の断崖に落ちる白糸の滝が、名前通りの白い筋を見せている。
時は最早、日本海への日没直前。
酒田から39km沖合に浮かぶ飛島の島影を浮かべて、日本海が暮れてゆく。
さて今夜(8月12日夜)は、日本海に面した庄内浜の砂の上でペルセウス流星群の大ページェントを楽しみましょうかね。
鳥海山は次々と花が目の前に現われる花の山。
そして1歩登るごとに見る世界が変わる景観の見事さはまるでワンダーランドだ。
滝の小屋ルートも、鉾立ルートも、外輪山経由も、千蛇谷経由も登りも下りも、どこを通っても大変な山だと言うことを身にしみて理解した今回の鳥海登山だったが、それでもこれが最後とは言わない。
来年も登ろうと言ってしまう魅力的な山、鳥海山だ。
この2日間、鳥海山を存分に楽しみ味わい尽くせた、素晴らしい夏の日だった。
佐藤 輝 ☆彡 2018.9.29
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春は椿と・・・・
自然の色はホントに美しい。
紅の椿。
僕に本物の春到来を毎年知らせてくれるのは鉢植えの薮椿の鮮やかな紅色。
今年も咲いてくれた。
生家の裏庭に生えた実生苗から成長したこの鉢植えの舘椿は故郷の春の始まりの喜びをも思い出させてくれる。
日ごとに夜の訪れが遅くなって、昼が長くなったなぁと感じられるこの頃の春の陽光と一緒になって、冬の寒さに耐えてちぢこまったこころを温かく心地よく目覚めさせてくれる。
なのに、蕾がふくらんで色づいて、明日は、明日の朝には今年の最初の花が開くと楽しみに待ちに待ったその朝の明け方、ギャーギャーと鳴き喜ぶつがいのヒヨドリの声とともに無残にも食いちぎられてしまった。
だから、この花は次に咲いた今年の二番花。
ふくらんで色づいた蕾のまわりに七夕飾りの残りの銀紙を短冊にしてひらひらと吊るした。
そして翌朝。
ヒヨドリのギの音も聞こえず、無事にみごとに咲いてくれた ! !
その日は何度も何度もベランダに出て、舘椿を慈しんだ。
前後して、侘助(ワビスケ)も咲いてくれた。
やはり、これも二番花。
うす碧味がかったピンクの花は、こじんまりとして、これ以上開かない慎ましさが名のとおり侘びの世界。
茶花にぴったり、ベランダの片隅をほのぼのと明るくしている。
しばらくは早朝のヒヨドリを警戒する日が続く。
2018年
このページ、今年初めてのupとなった。
新年は帰省先で雪かきの日々。
元気に雪を放り上げて汗をかいた。
東日本大震災から7年。
亡くなられた多くの方のご冥福をお祈り致します。
被災された皆さんの健康をお祈り致します。
佐藤 輝 ☆彡 2018.3.11
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東京庄内会と伊藤善市先生
故郷・山形県庄内町出身者と縁ある人たちの1年に1度の集い、「東京庄内会」が曇り空から快晴に変わった19日に九段下のホテルであって、参加した。
「最上川舟唄」を歌った。
庄内平野の真ん中を南北に分けて、庄内町の北部を東から西に流れる最上川は山形県の母なる川。
思い出の歌の合唱ではステージに溢れるばかりの参加者が声を限りに思いのたけを声にした。今年は新規参加者が50人ちかくも増えたと喜びの報告をした幹事長も右端で控えめに歌っている。
地元農協や企業などから提供されたお土産の抽選会があって、僕はJAあまるめ提供の大好物「杵つき丸もち」をゲットした。
喜んでいるところを、昨年同様プログラムには何の記載もないのに、ステージに呼び上げられて「ご挨拶を !」との司会者からの要望。
一瞬躊躇したが・・・、会を通じて皆さんに声を掛けて永く応援してくれた方だったのに、昨年の会で、会場に着いてから亡くなったことを知ってショックを受けた斎藤まり子さんのことを思い出した。
この会には斎藤さんのように会のつながりで俳優・佐藤輝を熱く応援してくれている人たちが大勢参加されている。その人たちにお礼の気持ちを伝える機会は少ない。そうだ、それができる絶好の機会をいただいたのだとステージに上がった。
皆さんには、次にお会いする時まで、自分を奮い立たせながら喜びを持って元気でいてもらいたい ! それが、最近の同時代を生きている人への僕の思いだ。
その思いを込めたアカペラ2曲を朗唱。
僕も出演した1987年に公開された森川時久監督の映画
「次郎物語」で、母を亡くして沈み込んでいる幼い次郎に父親が励まして歌った「男は大きな河になれ」。さだまさしさんが作詞しスメタナの「モルダウ」を編曲した主題曲。
松本幸四郎さんのドン・キホーテとコンビを組んだサンチョ役で484回出演した
『ラ・マンチャの男』で歌われる「見果てぬ夢」。
「夢は実りがたく 敵は多いけれど 哀しみを秘めながら 歩き続ける ! !」
ひと際目立って長身の原田真樹庄内町長。7月に4選されたばかり。町の進むべき方向が原田町長の双肩にかかっている。頑張って貰いたい。
歌い終わって降壇しようとすると大きな声が客席から「アンコール ! !」
続いて「最上川舟唄 ! !」の声。
そうだった ! 「最上川舟唄 ! !」
去年亡くなった斎藤さんからも「輝さんの最上川舟唄が聞きたいから会に来てるのよ ! だから歌ってよ ! ! 来年も来てよ ! !」と何度も言われていた。それが、斎藤さんの僕への励ましだった。
『おしん』でも定次が筏を操りながら歌った「最上川舟唄」。
「ヨーイサノマガーショ ! エーンヤコラマーガセ !」
会場が盛りあがって体を揺らしながら力を込めた掛け声を掛けて、「まっかん大根のしょっ汁煮」からは盛大な手拍子に合わせて、顔を紅潮させて歌い終わった。
☆
上山温泉「日本の宿 古窯」女将から
高さ11センチ、直径10センチもあるずしりと重く実ったラ・フランスが、蔵王の麓・上山温泉から「親善大使」として遣わされて来た。
「良縁感謝」の朱印と「感謝をこめて」の筆文字を添えて。
遣わしてくれたのは「日本の宿 古窯」の女将・佐藤洋詩恵さん。
女将とはある人に繋がるご縁があって、本当に一方的に応援していただいている。だから、ありがたい良縁に感謝しなければならないのは僕の方なのだ。なのに「感謝をこめて」の御恩返しができないでいる。
女将とは、そのある人の告別式で初めて知り合った。
そのある人とは、東京女子大学教授を務められた伊藤善市さん。
伊藤善市さんに初めてお目にかかったのが、東京オリンピックがあった昭和39年秋の「東京余目会」。この会が9年前にできた現在の「東京庄内会」の前身の一つになった。
昭和36年に、伊藤善市さんや僕の叔父・佐藤卯朔、斎藤まり子さんたちが、故郷を偲ぶ集いとして始めた東京余目会。
その集いに故郷から小学校の恩師を呼ぼうということになって呼ばれたのが僕の父だった。
上京した父と一緒に池袋温泉での東京余目会に出席して、当時東京女子大学文学部助教授だった伊藤善市さんに紹介された。
伊藤さんは父にとって一番の自慢の教え子だったと聞かされた。
それ以来、俳優を目指して修業に励む僕を、伊藤さんは何かにつけて「昭ちゃん、昭ちゃん」と声を掛けては支えてくれて、それにつれて余目会の他のメンバーも熱く応援してくれるようになった。
伊藤さんは当時の政府の多くの審議会の委員なども務める多忙の中で、山形県内の地域振興や人的交流、自力創生のための有機的な連携を積極的に進めた方だった。
昭和55(1980)年7月に僕がコンサート『演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』をABCホールで公演した時には、パンフレットに「庄内の風土と佐藤輝昭の世界」の一文を伊藤さんが書いてくださった。
故郷を愛する伊藤善市さんの思いに重ねて、僕の履歴や故郷の風土を豊かな筆致で紹介していただいた、嬉しい文章だった。
このコンサートは「舟唄」で開幕、「黒の舟唄」「バタフライ」「ティティーヌ」「パダンパダン」など演歌からシャンソンまで、それに「津軽じょんがら節」で始まった第2部『ふるさと庄内・夏の頃』では昔話を語り、鶴岡市から特別出演してもらった津盛柳太郎さんの庄内出羽人形を客席と一緒に楽しみ、最後は観客の掛け声と手拍子に盛り上げられて「最上川舟唄」を歌った。
思い出に残る舞台を創ることができたと、今でも思い出す。
伊藤善市さんは、余目会会長として会員をまとめては何度も公演を観に来てくださった。それは、伊藤さんが恩師としての僕の父に対する思いを僕に傾けてくださったのだと思われる。
また、伊藤さんは、東京余目会のように山形県出身者が出身地単位で作っている故郷会をまとめた山形県人連合会の会長もされた。
その時期、僕がメンバーの一人だった集まり、山形県人連合会にも参加している「芸能人山形県人会」が顧問にすえる人選について混乱していた上に、僕の叔父との関係も良好でなくなったために、不本意ながら伊藤さんとも余目会とも疎遠になってしまっていた。
そんな時に、斎藤まり子さんから届いた伊藤善市さんの訃報。
僕は、大恩人・伊藤善市さんに心から疎遠を詫びて許しを乞うた。
その告別式が終わったところで紹介されたのが、上山から駆けつけた古窯の女将・佐藤洋詩恵さんだった。
女将にとっての伊藤善市さんも、結婚によって山形の温泉旅館の女将という別世界に立った洋詩恵さんを励まして心を支えてくれた心からの恩師、大恩人だとのお話。
その後に伺った女将の話から、その伊藤善市さんの励ましがあったからこそ、今ある、心からのもてなしの宿として知られる古窯に育て上げることができたのだとの気持ちが感じられた。
女将の僕に対する応援は、大恩人・伊藤善市先生への御恩返しの一つなのだとありがたく理解している。
伊藤さんが応援した佐藤輝さんも自分が応援すべき人なのだとの強い思いから僕を応援してくださっているのだと理解して、伊藤先生と女将とにつながるご縁のありがたさに感謝している。まさに「良縁感謝」!
!
あと3日。
ラ・フランスが食べ頃を迎える。
時々くんくんしながら楽しみに待っている !
☆
『演劇的音楽会
唄う/語る 佐藤輝昭の世界』
1980(昭和55)年7月『演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』ABCホール公演
「庄内の風土と佐藤輝昭の世界」東京女子大学文学部教授 伊藤善市さん
1980年7月『演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』ABCホール公演
1980年7月『演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』ABCホール公演
1980年7月『演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』ABCホール公演
「バタフライ」
1980年7月『演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』ABCホール公演
「ティティーヌ」
1980年7月『演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』ABCホール公演
「パダンパダン」
1980年7月『演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』ABCホール公演
「パダンパダン」
1980年7月『演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』ABCホール公演
昔話語り
1980年7月『演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』ABCホール公演
特別出演 津盛柳太郎さんの庄内出羽人形
☆
芸能人山形県人会
「芸能人山形県人会」は昭和39年当時、三国連太郎主演・内田吐夢監督の東映映画「飢餓海峡」に出演した米沢市出身の俳優・伴淳三郎さんが、その映画に余目町出身最上逸馬さん、朝日町出身鈴木昭生さん、鶴岡市出身大久保正信さんなど山形県出身俳優が多く出演していることを知って、みんなの親睦をはかろうと声を掛けて集まったのが始まり。
「アジャ パー」を発し、バンジュンのニックネームで知られた名優・伴淳三郎さんが初代会長となって発足した全国初の芸能人だけの県人会として話題になった由緒ある会だった。
芸能人山形県人会懇親会 1987年2月28日
会長のシャンソン歌手・芦野宏さん、落語家橘ノ圓師匠、大先輩外野村晋さん、鈴木昭生さん、芝田陽子さん、連絡先を引き受けられた松岡弘子さん、渡辺白洋児さん、長い間事務局を担当された栗林恒雄さん、初代「ゴジラ」の中島春雄さん、などが参加された。
芸能人山形県人会懇親会 1989年10月21日
会長のシャンソン歌手・芦野宏さん、落語家橘ノ圓師匠、外野村晋さん、芝田陽子さん、連絡先を引き受けられた松岡弘子さん、渡辺白洋児さん、長い間事務局を担当された栗林恒雄さん、などが参加された。
帝劇の
ミュージカル『マイ・フェア・レディー』公演に山形県出身出演者が3人もいると喜び合って、「山形県人会」と称しながら親睦会をしたこともあった。
来週は酒田市のふるさと会・ふれあい酒田が待っている。楽しみだ。
佐藤 輝 ☆彡 2017.11.28
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山形 レストラン パ・マル
北国から初雪の便りが聞かれるようになって、慌ただしく山形へ帰省。
快晴の青空を背にした日陰に、ピンクの椿が。
レストラン パ・マルが山形市に新規開店した ! !
天童市で11年間「ビストロ パ・マル」として新感覚の個性あるフランス料理を提供してきた村山優輔シェフが満を持して新規開店した「Restaurant
Pas Mal」
外壁の白さとは対照的に、店内はぐっと渋く白と黒でまとめられた大人の雰囲気の洒落た世界。
1階は村山シェフの研ぎ澄まされた感性と包丁さばきがシャープに躍動するキッチン、それを真っ正面から見ることができるカウンター席。
2階は明るいガラス窓から前の通りも見えるテーブル席。シェフの弟・村山竜章さんがフロアを仕切っている。
僕は1階カウンター席で、期待の、シェフお任せランチをたっぷりと楽しんだ。
舌に、とろりっさらさらととろけるように、かすかな海の良い香りを運んでくれる「はまぐりの洋風茶わん蒸し」。
う〜んッ ! 一発目はこう来たか ! うまい ! !
一見、日本料理かと思わせながら、するっと躱して、意外な地中海の旅。
じっくりと舌と歯とのどで味わう。味わう。
ウニのコンソメジュレ ! !
11年近く前に「ビストロ パ・マル」で初めて食べた時の感動がよみがえった、うんッ ! ! もぅ ! ! !
これもとろける磯の香たっぷりのふくよかな味。
顔がどんどん・・・・。
このエビが入った香ばしい網の下には、ほっこらほくほく、身の厚い魚のソテェが、ボリュームたっぷりで。
地中海をイメージしながら、ただただ口いっぱいの満足感、仕合せ感 !
それにソースが美味いから、パンもぺろり。
これ? フランス産鴨モモ肉のコンフィ。
味覚の旅は地中海からプロバンスの沼地へ。
もう、何の言葉も出て来ない。
しこしこじんわ〜りと微妙に奥深い味が出てくる歯ごたえの良さ。
飲み込む時ののど越しの快感も。
このソースも ! で、パンのおかわり ! !
デザートはココナッツのブランマンジェ。
たっぷりの砂糖を入れたエスプレッソの苦味がココナッツ味を引き立たせ、また、料理の味わいをリフレーンしてよみがえらせてくれる。
ああ、極めようと追求する姿勢と求める感性と手の技と、それがこの一食に集約された究極の一皿 ! !
村山シェフがこれからも更に技を極めて活躍の世界を広げて行くのは間違いない。
次の機会も楽しみに期待している。
山形行ったら、是非ともレストラン パ・マルへ。絶対お勧めです !
思い出すだけで、口の中にあの味わいがよみがえって来る !
レストラン パ・マル Restaurant Pas Mal
問合せ・予約 070-1143-8080
山形へ急ぎ帰ったのは、自動車のタイヤをノーマルからスタッドレスに履き替えるため。
冬がそこまで来ているのに、秋の大イベントをまだupしていなかった ! 急がねば ! 間に合うかな?
佐藤 輝 ☆彡 2017.11.14
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7歳、余目八幡神社祭り。花持ち