俳優・佐藤 輝-20
 
あそびごころの 佐藤 輝の世界 俳優・佐藤 輝 - 20
2008年10月〜2009年1月

         
 
 
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2008年10月〜2009年1月



ポニョの妹たちに出会った!? 

 今日は久しぶりのお湿りとなった夜の雨が朝にはすっきりとあがって、春のようなぽかぽか陽気の晴天に。コートを脱いで歩く人も多い。

 快晴が続いた先週、僕が大事に育てているバルコニーの二種類の椿がそろって咲きだした。
 一鉢は故郷山形の生家から31年前に実生の苗を貰ってきた薮椿。土地の名をとって『館椿(たてつばき)』と名付けた。
 雪国の生家では、めったに雪を踏んでまでしてわざわざ人が行かなくなった屋敷の奥まった隅に、人知れず鮮やかな深紅の花を咲かせていた。厳冬の季節に、他に先駆けて生命を燃やしているようなこの椿を僕は子供の頃から大好きだった。故郷にはこの想いに共感する人が多いのだろう、生家がある庄内町が昨年決めた町の木が「情熱と活力を象徴している」ツバキだという。







 もう一鉢の椿は『侘助(わびすけ)』。これは館椿と違って、その名の通りに侘を感じさせる。茶花としてもってこいの楚々とした花。
 寒風を受けながらも、毎朝この二鉢を眺めるのを楽しみにしている。

 先週、もう一つ嬉しいことがあった。あのポニョの妹たちに会えたこと !
 水曜日などは3コマ、正味2時間たっぷりのトレーニング。その後にマッサージプールで体をほぐすのは本当に気持ちが良い。その時間帯に高窓から丁度良い角度で水面に日が差し込む時期があるあるのだが、去年は仕事が続いてその時期に合わなかった。
 それが先週、日が差し込む時間とプールに入る時間が重なった。プールに入る階段は丁度太陽方向にむかっていて、日光は斜め前方から水面を照らしている。ゆっくりゆっくり体を湯に沈めて視線が水面に水平になるころ、逆光の水面から高さ10センチほどに連続して飛び上がる無数のポニョの妹たちに出会った !
 ジェットバスから吹き出る細かな泡が水面に浮き上がると同時に小さくはじけて、それが水滴となって空中に飛びだす。それがまるで、あのポニョの妹たちのように見えたのだ。とってもしあわせな気持ちになって、水面を見続けた。体も心もポカポカになった。

 去年の暮に見たディズニーのアニメーション映画『ウォーリー』も心温まった。
 ゴミだらけになった地球から人間がみんな宇宙に逃げ出して無人になった地球で、700年もの間、黙々と一人( ? )ゴミを片付け続けるロボットのウォーリーのけなげなこと。
 手をつなぐ相手が見つかり、地球に緑が再生する可能性を知って人間が戻ってくる結末は、この混とんの世の中でも明日に希望を持って生きたいと思わせてくれた。

                     輝 ☆彡 09.1.19



2009年  

 新しい年が明けました。おめでとうございます。
 健康で夢がひるがる2009年でありますように ! !

 8月名古屋・御園座『おしん』の宣伝チラシも上がって届いた。
 こうして公演にむけて準備が一つ一つ具体化していくのは本当に嬉しく、心が弾んでワクワクする。

 今年も、去年に増して新たな気持ちで、コンディションを整え、より多くのお客さまに共感し喜んでいただける演技を目指します。

 去年の今ごろは4月の『ラ・マンチャの男』公演に向けて、サンチョの役作りのための7回目のスペイン旅行を準備していました。
 台本を読んで、自分の想像力だけで役作りし演技ができる器用な俳優も多くいますが、僕は不器用者です。
 どの作品も、自分が出演する作品は今地球上で公演されている作品の中で最高の作品にしたい。時間とお金をかけて観に来て下さるお客さんに感動と十分な満足感を持って帰っていただきたい。これが僕が公演に関わる時の基本の心構えの二つ。と思っていても、天才ではなく不器用な僕がそのためにできることは、ただただ愚直に可能なかぎり自分が納得できるまで細かく役作りをすること以外には無い。
 7回のスペイン訪問はその愚直な方法の一つで、サンチョを演ずる僕が『ラ・マンチャの男』という舞台をお客さんにより感動し楽しんでもらうためにする役作りの大事な部分だった。公演のたびにサンチョをリフレッシュして、何度も観ているお客さんにも新鮮な舞台を楽しんでもらうために。もちろん経費は全額自分持ちだ。
 回を重ねるうちに自分がサンチョの目線でラ・マンチャを眺めていることに気がついた。そして土地の人たちと何度も会っているうちに、その人たちが子供の時から知っているサンチョとして自然に僕に接していることが感じられるようになった。ラ・マンチャ地方を第二の故郷と思うようになった。

 2005年5月18日。『ラ・マンチャの男』公演中の名古屋・名鉄ホールの舞台で松本幸四郎さんがスペイン"カスティーリャ・ラ・マンチャ州政府"のホセ・マリア・バレダ・フォンテス首相から、長年にわたってラ・マンチャを舞台にした『ラ・マンチャの男』を演じてこられたことに対して栄誉賞を受けた。



ミュージカル『ラ・マンチャの男』サンチョ
2005年5月18日。ホセ・マリア首相とスペイン語で挨拶



 僕もお祝いのスピーチをし、ホセ・マリア首相にも挨拶をしたが、その時首相から「ラ・マンチャに来ることがあったら是非お寄り下さい」との言葉をいただいた。
 その公演直後に幸四郎さんとご一緒にラ・マンチャ地方を訪ねるテレビ番組の企画があった。スペインは幸四郎さんにとっては初めて、僕にとっては7回目となるはずだったが、出発を間近にして僕の同行はキャンセルされた。だから昨年のスペイン行きは、2005年2月の訪問以来3年ぶりのことになった。

 仕事の合間を縫って急に予定を決めるから、毎回綿密に準備をする余裕もなく、往復の飛行機と着いた日の夜と帰る前のホテル、それにレンタカーだけを日本で予約してあたふたと出発している。そんな訳で、古都トレドにあるカスティーリャ・ラ・マンチャ州政府にホセ・マリア首相を訪ねるつもりはあったものの、前もってのアポイントはとらずに出発した。

 スペイン初日は、マドリー(マドリード)市内ロペ・デ・ベガ通りにあるトゥリニターリアス修道院を訪ねた。この通りの1本北にあるセルバンテス通りの西の角で1616年4月23日に亡くなったセルバンテスが、ここに眠っている。が、他の教会と違って礼拝堂の扉が開くのはミサの時間だけに限られている。



俳優佐藤輝 ミュージカル『ラ・マンチャの男』サンチョ・パンサ セルバンテスが眠るトゥリニターリアス修道院 マドリード
セルバンテスが眠っているトゥリニターリアス修道院



ミュージカル『ラ・マンチャの男』サンチョ マドリッド セルバンテス終焉の地 旧居跡
セルバンテス終焉の地、セルバンテス通りにある旧居跡



 幸運にも翌日の朝のミサに出ることができた。
 その後はバスでマドリーから東に30キロ、約50分、世界遺産に登録されている大学都市アルカラ・デ・エナーレス(Alcala de Henares)を初めて訪ねた。教会など古い建物の屋根屋根にはコウノトリが巣作りをしている。
 1547年9月29日、セルバンテスは父親が外科医として勤めているこの街のアンテサナ(Antezana)病院で生まれた。その病院は今も保存されていて、隣りには4歳までの幼少時代を過ごした家が"セルバンテスの家博物館(Museo Casa Natal de Cervantes)"として残っている。前の歩道のベンチに、キホーテとサンチョの像が腰をかけている。




セルバンテスが生まれたアンテサナ病院の入口



俳優佐藤輝 ミュージカル『ラ・マンチャの男』サンチョ・パンサ セルバンテスの生家 スペイン アルカラ・デ・エナーレス
セルバンテスが4歳までを過ごした『セルバンテスの家』の前



 この日一日でセルバンテスの誕生と死、いわば彼の一生を見てしまったことになる。この68年の人生の間に彼は『ドン・キホーテ』を書いている。

 3日目。レンタカーを借りてラ・マンチャの大地を南下した。先ず目指したのは高速道路で1時間の古都トレド。
 トレドは1561年にマドリーへ遷都するまで、スペインの首都だった。スペインで自由になる時間が1日しかなかったらトレドに行けといわれるほどスペインの歴史と美が凝縮している。東のパラドール(歴史的建物などを使った国営のホテル)の丘から眺める、タホ川の流れに抱かれた街の風景は見飽きることがない。



俳優佐藤輝 ミュージカル『ラ・マンチャの男』サンチョ・パンサ スペイン トレド全景



 首相への面会申し込みの趣旨をスペイン語の手紙にして持って行ったのは良かった。それを読むと案内所でも政府庁舎を警備する警察官も直ぐに連絡を取り、スムーズに段取りをつけてくれた。



    俳優佐藤輝 ミュージカル『ラ・マンチャの男』サンチョ・パンサ スペイン カスティーリャ・ラ・マンチャ州首相への信書



ホセ・マリア首相宛手紙の日本語原文

                         2008年1月14日
カスティーリャ・ラ・マンチャ州政府 
ホセ・マリア・バレダ・フォンテス首相閣下

 2005年5月18日、日本の名古屋、名鉄ホールでのミュージカル『ラ・マンチャの男』の舞台で、カスティーリャ・ラ・マンチャ州政府首相、ホセ・マリア・バレダ・フォンテス閣下にお目にかかりました俳優の佐藤 輝です。
 ミュージカル『ラ・マンチャの男』のサンチョを、日本で1995年から449回演じています。
 初めてサンチョを演じることになった1994年に、セルバンテスとドン・キホーテ、サンチョが生きた土地と文化を知るためにラ・マンチャを訪ねました。以来、『ラ・マンチャの男』の公演があるたびにサンチョの故郷を訪ねて、サンチョの新鮮なイメージを作っています。今回は、4月に東京、帝国劇場で行われる公演にそなえて、7回目のサンチョの里帰りです。
 ラ・マンチャは私の第二の故郷です。私はラ・マンチャの風景、風土と文化が大好きです。もちろん、食事もビノも。そして素朴で優しい人々。里帰りのたびに、ラ・マンチャの皆さんに歓迎されて、本当の故郷に帰ってきたような安心感と喜びを感じています。私の家には、キホーテとサンチョの人形とカンポ・デ・クリプターナの風車の写真が飾ってあり、いつもラ・マンチャを思い出しています。
 日本のサンチョが、故郷のホセ・マリア・バレダ・フォンテス首相にご挨拶に来ました。ご多忙とは思いますが、少しでもお目にかかってご挨拶できれば、とても幸せです。

                     日本のサンチョ 佐藤 輝



 残念ながら首相は出張で不在だったが、突然の訪問にもかかわらず代理の対外企画局長(Director General de Organizacion y Protocolo)ヘスス・ガルシア・ロドリーゴさんが執務室に招き入れて丁寧に応対、歓迎してくださった。
 名鉄ホールでの思い出やサンチョを演じる想い、ラ・マンチャ地方の印象などを話すと、楽しそうに熱心に聞いてくれて、首相にきちんと伝えますとのことだった。記念に、カスティーリャ・ラ・マンチャ州を紹介した豪華本とステキな箱に入ったラ・マンチャの特産品、サフラン、オリーブ油、蜂蜜をいただいた。



俳優佐藤輝 ミュージカル『ラ・マンチャの男』サンチョ・パンサ カステイーリャ・ラ・マンチャ州政府外交大臣
執務室前でヘスス・ガルシア・ロドリーゴさんと記念写真



 帰国後の去年2月。名古屋・御園座『チャングムの誓い』出演中の楽屋に、ホセ・マリア・バレダ・フォンテス首相から嬉しい手紙が届いた。
 日本のサンチョのトレドへの訪問をとても喜んでくれて、自分の留守を詫び、僕の手紙の「ラ・マンチャは私の第二の故郷です。」に特に感動しその思いをカスティーリャ・ラ・マンチャ州の州民みんなに公に伝えたいとの、心のこもった丁重な内容の手紙だった。


 
   俳優佐藤輝 ミュージカル『ラ・マンチャの男』サンチョ・パンサ カスティーリャ・ラ・マンチャ州首相からの信書

   

 舞台をより面白くしようとサンチョの役作りのために回を重ねてきたラ・マンチャ訪問だが、僕自身の第二の故郷への里帰りはこれから先も続きそうだ。だって、ラ・マンチャ地方を含めて、スペインは風土も歴史も文化も食も酒も、本当に魅力にあふれているから。それに僕の里帰りを心待ちにし、喜んで歓迎してくれる沢山のアミーゴ、アミーガの皆さんがいるから。そして、それらを全部ひっくるめて、サンチョ役に限らず、表現し演じる者の創造的想像力を強く刺激してくれる素晴らしく面白い世界だから。セルバンテスはもちろん、ピカソもガウディーもロルカもゴヤも・・・・、大芸術家を生んだ風土が五感を刺激してくれる。

 2008年の旅の続きは 『ラ・マンチャの男』出演記録 をご覧下さい。 


                  ☆彡

 世の移り変わりにつれて考えた。

 表現者としての俳優は、自分の演技力や人としての魅力を自らの切磋琢磨、努力によって身に付けようと、目に見えないところで苦闘している。それは他人との競争ではなく、今の自分自身を克服し変革しようとする内なる戦いであって、その成果を見るにはたゆまぬ自己研鑽を続けるしか他に方法は無いものだ。

 さあ、佐藤 輝、今年も元気で、お客さまに共感し感動してもらえる表現のために自己研鑽を続ける!

                  輝 ☆彡 2009.1.7

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ステキな日々 

 東京タワーが昨日50歳の誕生日。僕が中学1年の時に誕生した。
 翌年の春、修学旅行を引率した父が、金色に輝く高さ15センチほどのタワーの模型を土産に買ってきてくれた。それを勉強机に飾って見ながら、金色に輝く東京を夢見ていた。
 今夜も、我が家のバルコニーからスペシャル照明に浮き上がったタワーが一際明るく遠望できる。クリスマスイヴ。

 15日、峰岸徹さんのお別れの会があって400人もの人が別れを惜しんだ。会場では、久々に会えた人たちが、互いにトンちゃんとの思い出を語り、旧交を温めっ合っている。聞くと、50代なかばになってトライアスロンにも挑戦し体を鍛えていたトンちゃんは最近腰痛を感じていたが、それをトレーニングのせいだと思っていたらしい。でも念のためにと調べたら、それは肺ガンが腰にも転移した痛みだったのだと言う。健康には人一倍自信がある人だったのに・・・、手遅れだったと。
 会場を途中退席して玄関に向かう途中、廊下の角を曲がると不意に、広いガラス窓から東京タワーが見えた。冷えて澄んだ夜空に、高く天を指す尖塔は、トンちゃんの天に昇る道を指し示しているようだった。50の数字がくっきりと見える。
 携帯電話のカメラで撮ったが、心の震えが指先に伝わって・・・。



   



 嬉しいこともいっぱいあった。

 健康保険組合などを通じて全国で配付されている社会保険新報社発行の『いきいき』12月号が届いた。僕のインタビュー記事が掲載されている。
 プロフィールには " 山椒は小粒でもぴりりと辛い。それを地でゆく役者。高い評価を得る演技力、抜群の音楽センスと歌唱力。そのうえ持ち前の明るさと愛嬌が魅力の個性派。・・・云々" と紹介されている。こんなに自信が持てない僕なのに、第三者が見るとそのように見えているのかと、かくれんぼしているような不思議な、こそばゆい気持ちになる。

 インタビューでは、自分の誕生や故郷のこと、『おしん』で歌っている『最上川舟唄』、俳優をこころざしたいきさつ、引き立ててくれた人たちとの出会い、『ラ・マンチャの男』のサンチョにいたる道のりなどのエピソードを語った。7月の『おしん』の楽屋、写真の僕の後ろには、『ラ・マンチャの男』と『おしん』のTシャツが写っていた。

 11日には、来年3月明治座『三平物語』の宣伝チラシが刷り上がって届いた。台本はまだ仕上がっていないから、このチラシが舞台や自分の役作りの出発点になる。期待に胸が小躍りしている。とても楽しい時だ。
 明治座に出演できるのもとても嬉しい。明治座は実は、1975年(昭和50年)に僕が商業演劇と呼ばれる大劇場に初めて出演した記念となる劇場。張り切るのは当然だ。

 その舞台は弟ねずみ三太役で小川真由美さん、緒形拳さんと共演、舞台狭しと走り回って注目された『浮世絵 女ねずみ小僧』(福田善之作・演出)。今は亡き両親も故郷から観に来て喜んでくれた。あの時は地下鉄人形町駅から劇場に行くあいだ、甘酒横丁、浜町、水天宮など、下町情緒を楽しんだものだった。それ以来、実に34年ぶりの出演。街はそんなに変わっていないだろうけど、この間に劇場は建て替えられている。新しい明治座の舞台も楽しみ。そして僕の演じる役がどんな役になるのか、期待がふくらむ。



俳優佐藤輝 明治座『浮世絵 女ねずみ小僧』弟ねずみ三太 小川真由美



俳優佐藤輝 明治座『女ねずみ小僧』弟ねずみ三太 緒形拳 小川真由美



 13日、すでに掲示板にも書き込んだ由紀さおりさん安田祥子さん姉妹の中野サンプラザでのコンサートへ。あの大きなホールが超満員。着席すると、横一列に『新宿・歌声喫茶の青春』出演者の面々がそろってる。
 柔らかな声の響きと澄んだハーモニーにただただうっとりして感心ばかり。特にフォーク世代の僕は、熱い思いのこもった祥子さんの『比叡おろし』と由紀さんの『チューリップのアップリケ』にはしびれた ! 終演後に楽屋で、シアターアプル打ち上げ以来の再会に更に感激。記念写真におさまって、またの再会を約束した。
 そして客席組は、近くのモツ鍋屋で食欲を満たし、カラオケでそれぞれの表現欲を満たした。楽しく、ホントに素敵な一日。澪さんのお誘いのお陰です。

 以前、いつも使っている封筒を買いにいつもの店に行ったら、その封筒はもう置いてなくて、その棚を安い封筒が占領していた。店の方針なのだろうから仕方ないと諦めかけたが、ダメモトと近くの店員さんに補給を頼んでみた。それから数ヶ月した先日、その店に買い物に行き、期待もせずにその棚を見にいって驚いた。安い封筒の隣に、欲しかった封筒がちゃんとあった ! 効率優先で商品を変えたのだろうけど、客の要望をきちんと店に伝えてくれた店員、その要望に応えてくれた店のやり方に温かい心を感じて、気持ち良い一日になった。

 生きているって、まんざら捨てたものではない、ステキなことだと思う。

               輝 ☆彡 08.12.24



オヒョイさんの誕生日 

 オヒョイさんとは俳優・藤村俊二さんのニックネーム。
 自由気ままに稽古場からヒョイといなくなるのでそのアダ名がついたという。
 オヒョイさん74歳の誕生パーティーが8日夜、南青山のワインバー、その名も「オヒョイ'ズ」であって、一緒に楽しませていただいた。

 1階から吹き抜けになった地下の広場に降りていくと、店の前は花屋が新装オープンしたような豪華な花園。贈り主の各界名士、知名人の名前がズラリと並んでいる。
受付にはお祝いに駆けつけた人の列が続いて、飲み物を注文するカウンターの前は満員電車以上の込みぐあい。受け取るには少々待つ覚悟。
 年に1度だけここで出会う知人もいれば、劇場関係者やかつて一緒に仕事をしたスタッフとバッタリの出会いもあり、ここで知りあって楽屋に訪ねて来てくれた人との久しぶりの再会もある。僕は赤ワインを受け取って先ずはオヒョイさんとお祝いの乾杯! 去年は公演中で来れなかったから2年ぶりの再会だが、オヒョイさんは相変わらずというよりは、更に元気になっている感じがする。



俳優佐藤輝 藤村俊二さん誕生パーティー オヒョイ'ズ



 みなさんそれぞれにシャンパンやワインのグラスを持ち、多くの人は立っておしゃべりを楽しんでいる。大皿に盛られた鯛の塩焼きやピザなど多彩な料理がドーンと大テーブルに出てくるたびに、一斉にわっと取り囲んでほんの数分で皿をきれいにする。



俳優佐藤輝 藤村俊二さん誕生パーティー オヒョイ'ズ
秋本奈緒美さん、『天国から来たチャンピオン』で共演した川上麻衣子さんと記念写真



 今や12月恒例の大イベントとなっているオヒョイさんの誕生祝い。そもそものスタートは2000年に『天国から来たチャンピオン』でオヒョイさんと共演した別所哲也さん、川上麻衣子さんなど僕たちが7日の夜にオヒョイ'ズに集まり、8日の午前0時を期して「ハッピーバースデイ」を歌ってお祝いしたことだった。

 『天国から来たチャンピオン』は面白く、ボクシングトレーナーのマックスレビーンは演じても楽しい役だった。再演したら今の時代に喜ばれる作品だと思う。
 オヒョイさん、再演しましょうよ! 何とか!
      
               輝 ☆彡 08.12.09    


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慌ただしくて、年の暮れ 

 11月中にはなんとかこのページにもう一度書こうと思いつつ、かなわぬままに、ああ、12月。それも、もう6日になってしまった。

 舞台出演が一段落するといつも、稽古前の準備に入った時から公演が終わるまでにできなかった日常的モロモロの片付けや、義理を欠いてしまった付き合いの穴埋めなど、しなければならないことが目の前に山になっている。特に去年秋からのこの1年間は、日生劇場の『チャングムの誓い』にはじまって名古屋御園座での『チャングムの誓い』、4月『ラ・マンチャの男』、7月『おしん』、10月『 新宿・歌声喫茶の青春』と続き、その役作りのための韓国とスペイン訪問もあったから、し残していたことが山脈だ!

 それを毎日必死になって片付けているのだが、声と体のトレーニングは今だからこそ続けなければならないことだし、その時間は必要で、その間にも「そうそう、写真の整理もしなきゃ。あれもだ、これもだ」、例年なら年明けにやっていることも今月中にやっちゃおうなどと手間ひまのかかることが次々と出てくる。



俳優佐藤輝 撮影 山形県蔵王山



 しかもその間、雪にならないうちにと先月は山形に2回も帰省。蔵王は残る紅葉と新雪の純白が好対照。

 その合間をぬって観た『崖の上のポニョ』には心と目が洗われたし、小劇場大劇場をふくめて芝居も何本か観た。
 先月ル テアトル銀座で観た『華々しき一族』は森本薫の原作を大藪郁子さんが時代背景や人間関係をとても解りやすく脚色し、それを演出の石井ふく子さんが出演者の個性をきめ細かに引きだしてドラマティックに仕上げて、見ごたえのある緊張感あふれる面白い舞台だった。若尾文子さんが演じた諏訪、大人の女心の揺れを自然に巧みに演じてハラハラどきどき、まいった。

 間もなく閉館する新宿の小劇場シアタートップスで、劇団道学先生の『ザブザブ波止場』再演を観た。キャストが少し変わっていたが、今や売れに売れている座付作者中島淳彦さんの描いた宮崎油津の潮風と人々ののどかな熱気は劇場空間に相変わらず満ちていた。中島ワールドは人間存在の切なさ、愛おしさを描いて秀逸。


 僕の故郷山形県庄内町の、旧余目町出身者が作っている「東京余目会」に飛び入り参加した。
 俳優という職業は仕事のスケジュールが最優先されるし、予定が急に変更されたり突然入る新しい仕事もあるから、はっきりした出欠の返事を前もって出すことが難しい。そんな訳で返事を出さずにいたものの、都合がつくなら短時間でも出席したいと思っていた。山形県を舞台にした7月の『おしん』公演には「協力 山形県」ということもあって大勢の会員が観に来て僕を激励してくれたし、多忙でみんなと一緒に観られなかった原田眞樹庄内町長は後日、出張の合間に劇場に駆けつけて当日券を求めて一幕途中から観劇してくれた。他の公演にも何人もの会員が観にきてくれている。余目会総会は、そのみなさんに直接お礼を言える良い機会だと思っていたからだ。

 当日あった打ち合わせが順調に進んで、総会が終わる1時間程前に会場のホテルに駆け込むことができた。丁度二組の歌のアトラクションが終わって、140名の参加者が円いテーブルで懇談している会場は和気あいあいと盛り上がっていた。幹事で経理を担当している高校同期の渋谷太郎さんや公演のたびに楽屋に手作りのおこわや煮物を届けてくれる斎藤まり子さんにお礼を言い挨拶していると突然司会者にステージへ呼び出されて紹介されてしまった。本当は個々に挨拶してそのまま静かに帰る積もりだったのだが・・・。

 皆さんの観劇と励ましに対するお礼を述べたあと、声の不調を理由に今日は歌わない積もりだった「最上川舟唄」を、会場の拍手に押されて結局ワンコーラス歌った。『おしん』の舞台で僕が演じた定次が、奉公に出るおしんをいかだに乗せて最上川をくだる時に歌った舟唄。
 歌いはじめて、自分でハッとした。歌い出しの舟を引く掛け声を劇中では花道の長さに合わせて短く端折る形にしていたが、それはあくまでも舞台仕様の『おしん』バージョン。ここでは本来の民謡として端折らずに歌う積もりだったのに、あれっ、何か変だと思ったら・・・「ヨーイサノマガーショ ヨーイサノマガーショ」からすぐに「酒田さ行ぐさげマメでろちゃ〜」とつないで、完全に『おしん』バージョンで歌っていた。

 今年は、3年前に庄内町として合併した旧立川町の「ふるさと立川会」との統合にむけた合同の総会として、大きな一歩を踏み出した総会だった。旧立川町には出羽三山の主峰月山から流れ出る清流の立谷沢川があり、清川(きよかわ)で最上川に合流している。この川が今年「平成の名水百選」に選ばれた。その名水と庄内米を庄内町から運んできて炊き上げたおにぎりをいただいた。二つの町、二つの会の合併を象徴するおにぎり。つやつやと輝く本物のおにぎりは、こんなにうまいんだった。香り良く、歯ごたえ良く、甘味があって、うまい ! もう一つ食べたいところだったが、ザンネン、時間切れ。

 庄内町は、霊山から名水流れる立川町と、広々と広がる美田から最高級の庄内米を生産している余目町が合併してできた町。それは今まで夫々が持っていた「ふるさと」のイメージを大きく変えるものだったが、二つのイメージの融合は相乗効果によってプラスになり、「ふるさと」庄内町のイメージを、月山の頂上と広い平野を合わせ持つより広がりのある変化に富んだ魅力あふれる大きなものにふくらませてくれた。ふるさとに対するそんな思いの広がりが会の統合へと発展したことが、出席者の表情や言葉から読み取れる。この会のなごやかに盛り上がった熱気は、そのお祝いの気持ちの現れだった。出席申し込みが多く先着順で締め切り、はがきが遅かった人の出席は断ったと聞かされたが、この記念すべき会に飛び入りで参加させていただけたことを喜んだ。







 11月29日には恒例、千束の鷲(おおとり)神社に三の酉のお参り。来年も、どうぞヨロシク・・・! と。
 一昨年の三の酉の帰りには、俳人鈴木真砂女が開いた銀座1丁目の「卯波」に寄って俳句の話などを楽しんだが、今年はあの味わいある小料理屋は跡形もなく、その場所が更地になってしまっている。

  
 木枯らしの吹き残したる小社かな 輝

 11月30日、モンテディオ山形がJ1昇格を決めた ! 10年間耐えてのおめでとう !
 これで来年はサッカー観戦の楽しみが増えた。2009年は熱くなりそうだ。がんばれ ! モンテディオ山形 !

                  輝 ☆彡 08.12.6



峰岸徹さんと『おくりびと』 

 映画『おくりびと』(滝田洋二郎監督)を見た。
 題名からは何を描いている映画なのかを想像できなかったが、ただ僕の故郷・山形県庄内地方を舞台にした映画だというだけで映画館に入った。

 映画は、庄内平野の冬、数メートル先も見えないほど、殴りつけるように真横から吹きつける強烈な地吹雪の農道を、自動車のヘッドライトがほのかに見えてのろのろと近づいてくる場面から始まった。

 これが、実に面白い映画で、初めは死を現実的なビジネスの対象として考える直截的なやりとりの可笑しさに笑い、物語がすすむにつれて生きることの切実さ、現実の人間関係の切なさ、人が死んで初めて明らかになるその人の過去、またそれを知った上で始まる人々の関係などがリアルに、丁寧に描かれている。そして、死と、その旅立ちの荘厳さ。生きることの重さを実感したからこそ、誠意をもって、ビジネスではない「おくりびと(納棺師)」を仕事としていく決心をした主人公(本木雅弘)の爽快さに観客は共感し、感動の涙を流していた。会社経営者役の山崎努さんとそこで働く事務員役の余貴美子さんのホットな存在感が、良い世界を作って作品に厚みを持たせている。

 その全編の背景には、このホームページの表紙にもなった鳥海山が、遠く近く人々の生活を見守っている。
 今は廃館になっている酒田市の映画館、かつては僕が出演した映画も何度か上映された「港座」をはじめ、僕の知っている街角や景色が次々と出てきて、それが観客の想像力をかきたてて作品を支えている道具立てになっていると思うと愉快だった。
 映画の終盤で、主人公が子供の頃に別れて行方知れずになっていた父の死を知り漁港に駆けつけ、遺体と対面する。その顔にかけられた布を取った瞬間、僕は息を呑んだ。その顔、死んだ父親を演じていたのは、なんと今月11日に65歳で亡くなったばかりの峰岸徹さんだった。
 僕はスクリーンに大写しになったその姿を、映画の中の主人公の父親としてではなく、親しくしてもらった俳優仲間・峰岸徹さんの現実の死の床に立ち会ったような気持ちでぼう然として眺めた。とんちゃん(峰岸さんのニックネーム)のあの厚い胸のどこにそんな病魔が隠れていたかと思える、頑丈な亡きがらだった。

 峰岸徹さんとは1974年(昭和49)1月から2月にかけて渋谷の西武劇場(現PARCO劇場)で公演した井上ひさし作『天保十二年のシェイクスピア』で初めてご一緒した。
 初日には4時間30分もかかった長い芝居だったが、それを公演中に出演者同士が相談してテンポを上げたり工夫して、千秋楽の頃には4時間弱におさめた。
 その後、山形市や新潟市、神戸市などで旅公演したこともあって、出演者同士の親交が深まり、当時「峰岸隆之介」を芸名にしていたとんちゃんの自宅に木の実ナナさん、根岸明美さん、稲野和子さん、矢崎滋さん、金森勢さん、観世栄夫さんなど共演者が何度も集まっては楽しんだ。
 2005年10月に『水戸黄門』の仕事で京都に行った折りに、別の番組の仕事で来ていたとんちゃんと太秦の東映撮影所で久しぶりに出会い、互いの連絡先を交わし合ったのが最後になった。

 相撲の世界に柏鵬時代と呼ばれる黄金期を築いた横綱柏戸(鏡山親方)は、わが故郷が誇りとした大先輩。
 その奥さんで鏡山部屋のおかみさんだった富樫セツ子さんが10月9日、旅行先の沖縄で亡くなられたと知らせをいただいて、17日の葬儀に参列した。ひょんなことから知りあい、僕が親方と同郷だというご縁で、ご家族をあげて応援していただいた。7月新橋演舞場『おしん』の楽屋に、二人のお嬢さんと一緒に訪ねて来て下さったのが最後となってしまった。まだまだ若い、61歳だなんて。

 ご冥福をお祈り申しあげます。

                  輝 ☆彡 08.10.23

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