あれから・・・30年 !
1983年4月15日、東京は雨。
僕は5月3日に大阪道頓堀・朝日座で初日を迎える『近松心中物語』の稽古が帝劇9階稽古場であって、この日も初役の太鼓持勘八の歌と踊りの猛特訓を猪俣公章さんと花柳錦之輔さんから受けていた。
この日、楽しみにしていた東京ディズニーランドが浦安市にグランドオープンした。
1万8000人の入場者があったと聞く。
1983年オープン当時のガイドマップ
この時期はフジテレビの連続ドラマ『望郷』収録もあって、下北半島ロケと稽古、リハーサルが重なり、いつディズニーランドに行けるのかは分からない状態だった。
オープンから10日くらい経った頃、思いがけず夜の時間が空いて、そうだ外側から夜景だけでも見たいと思い立ち、小さなバイクで駆けつけた。
闇に浮かぶ白いシンデレラ城を遠望して感動し、バイクにもたれながら持参したクッキーを食べたことをつい数年前のことのように思い出す。
1983年オープン当時のシンデレラ城
7月に入って念願がかないディズニーランドデビュー。
朝の9時に入場してから12時間半、時々雨と雷雨の中を楽しんだ。
当時の手帳のメモに「パスポート(3900円)で動き回り、21のアトラクションをタンノウ。さすが本物 ! 馬鹿には出来ない。エターナルシー、サークルビジョン、ミッキーレビュー、スモールワールド、ピーターパン、船、汽車が良い。写真70枚」と記している。
丁寧な接客サービスが徹底していて、小さなゴミも直ぐに掃き取られるクリーンな気持ち良さが夢の世界を包み込んでいると、とても印象に残ったディズニーランド初体験だった。
その爽快な楽しみに魅かれて、その1ト月後には2回目の入場をした。
あれから30年、2013年5月12日のディズニーランド
以来30年、「・・記念」と名付けたり、何かにことよせて、もう何度も数えきれないほどディズニーランドで楽しんでいる。
何度行ってもその度にいつも初めて入ったようなわくわくする期待と新鮮な喜びを感じられるのが嬉しい。
今は「プーさんのハニーハント」「ビッグサンダーマウンテン」「スプラッシュマウンテン」「トゥーンタウンのゴーコースター」「スモールワールド」「ウェスタンリバー鉄道」「カントリーベアシアター」などは絶対押さえる必須アトラクション。
僕の30周年記念は天気に恵まれた今月12日。
車で20分で入場できる地理的条件は、翌日の天気予報を見てから明日は決行と決められる幸せ。
8時の開門と同時に入場、夜10時過ぎの買い物まで、「プーさんのハニーハント」「ビッグサンダーマウンテン」「スプラッシュマウンテン」は各2回、久し振りに乗ったカルーセル、マークトウェイン号、スタージェット、ジャングルクルーズ、空飛ぶダンボなど、のべ16アトラクションを楽しんだ。
その上に30周年デイパレードも夜のエレクトリカルパレードも花火も楽しんで。
ディズニーランドを満喫 !
ああ、そうそう、僕と似ている熊が一弦を弾いていると言われるベアシアターはなぜか早く店仕舞いしていて見られず、これだけはザンネン
! !
その当時はそんなに思わなかったけど、写真を見ると30年前は緑が少なかったし、高い山も作られていなかった。
オープン当時のマークトウェイン号
木々が成長するほどの長い時間を、一見本物に見える人工の岩や土や建物などの作り物が風雪に耐えてきたのだと思うと、すごい丈夫な工作物だと感心する。
オープン当時のウェスタンリバー鉄道
ゲートを何度も何度も振り返って名残を惜しみながら、次はいつ来ようかと考えてしまうディズニーランドの魅力 ! !
舞台作りもこうありたい ! !
輝 ☆彡 2013.5.30
初心・・・故郷の春
連休後半となった5月。
いつもなら東北自動車道を4時間半走れば長いトンネルをくぐって故郷の見慣れた山々の姿が目に入るのに、帰省の車の列は途切れることなく、中には「そんなにのろのろ走るんなら高速代が勿体ないから高速を走るな
! 」と怒鳴りたくなるような車もいて、この日は7時間のドライブ。
いつもより手前のパーキングエリアで休憩したのは正解だった。その先はどこもエリアのずっと手前から列を作っていた。
夜が明けてから山形に着いた。
東京と比べたら1ト月遅い桜が所々に咲き残っているが、他の花は今が盛り。春満開の故郷。
サクランボ佐藤錦の花はこんなに密に枝にびっしりと咲く。
この白い花が、あの鮮やかな紅色のつやつやしたサクランボに実るのは6月中頃。
花を見ただけであの歯触りと口中に広がる上品な甘さが感じられる。
自然にこんな顔になる。
現実に味わい、種をプィッと楽しめるまであと少しだ。
夜は車で20分の蔵王温泉「川原湯」に。
温泉街に三つある共同浴場の一つだが、僕は足もとの簀の子から熱い源泉が湧いているこの川原湯が好きだ。特に四十肩など神経系に効き目があるようで、ゆっくりゆっくり浴槽に体を沈めると、びりびりと熱さが体中にしみ込んできて神経を初心に覚醒させてくれるように感じる。
星空と遠い街の灯を眺めながら帰る暗い山道も、民話が感じられて好きだ。
羽黒山(414m)、月山(1984m)、湯殿山(1500m)で出羽三山。古くからの羽黒修験道の聖地で夫々が現在、過去、未来を象徴する。
庄内に生まれ育って、毎日眺めて暮らした出羽三山から受けた精神的・芸能的な影響を、俳優という表現者として自分捜しの中で見つめたいと、20代に深く興味を持った。
その一つの結果として、結婚式を羽黒山山頂の出羽三山神社本殿で挙げた。30歳の5月4日だった。
この季節に帰省したときにはその日に羽黒山にお参りすることにしている。
今年も参拝することができた。
庄内町の生家には初心を育んでくれた思い出がぎゅうぎゅう詰まっている。
生まれて育った茅葺きの家は、僕が俳優をこころざして上京した後の新潟地震で亀裂が入ったこともあって同じ場所に新しく建て替えられたが、築山のある裏庭はほとんどそのままで、その側で冬にキャンプをした「舘椿」の親の樹や登るのに丁度良い枝が出ていた大木のサワラの木など、見上げれば心は少年期に一足飛び。
指を差しているサワラとその右の花を咲かせているコブシの間には以前、サワラよりも太いケヤキがあって、その枝がサワラの枝と交錯して居心地の良い場所を作っていた。そこに僕はロープでネットを編んで腰掛けを作った。
天気が良ければそこに座って、庄内平野をぐるり眺めながら過ごした。
出羽三山はもとより北の鳥海山から東の出羽丘陵、南の金峰山、母狩山が見え、羽越線を走る蒸気機関車の煙が北へ南へ移動するのを眺めながら色んな空想にふけった。
創造的想像力を育んでくれたゆりかごかも知れない。
高校は港町・酒田にあって、演劇と映画と港と船の3年間だった。
酒田は風の町。潮風の町。この潮の香りが好きだ。
この船はどこまで行くのだろう。と想像するだけで、船を見るとわくわくする。
山形市街と蔵王温泉の間にある西蔵王放牧場の大山桜。
西行の「山家集」にある「たぐひなき おもひいではの さくらかな うすくれなゐの はなのにほいは」はここの桜を詠んだ歌と言われる、株立ちの古い桜。
あっちこっちに散らばって生えている桜の大木は、奥山に自生した古木の素朴さが残り香のように侘び寂の世界にいざなってくれる。
まだ桜の花が見られるとの情報で温泉に行く途中に初めて訪ねた大山桜だが、西行がわざわざ訪ねた理由が感じられる風情ある桜。
素晴らしい桜に出合えた今年の春を喜んだ。
瀧山川の源流となる背後の瀧山にはまだ雪が残り、日が陰ると急に肌寒くなる。
和歌の続きは俳句の世界。
芭蕉の「蝉の声」にはほど遠い、最高気温で11.8℃の寒い日になった山寺・立石寺。
もう何度も参拝しているお寺だが、丁度50年に一度の根本中堂本尊・薬師如来坐像御開帳が4月末から5月いっぱいと知って、こんな機会はそうそうあるものじゃないと連休が終わった翌日、帰京する前に立ち寄った。
連休中は駐車場に入るだけでも4時間かかった、あきらめて途中で帰ったとの話を聞いたが、この日は嘘のようにすいすい。
列を作るようなこともなく、先を急ぐこともなく、丁寧に僧侶の説明を聞き、目がくっきりして素朴なお顔の薬師如来を拝むことができた。
奥の院まで1015段の石段。
暑い季節には汗を拭き拭きハーハー息切れしながら登るのを、今日はのんびりここから上は極楽と説明のある姥堂、慈覚大師の足跡を踏んで歩む四寸道、せみ塚では「奧の細道」の文章を声をだして朗読したり、説明文を丁寧に読みながら登る。
右に続いている大きな岩は弥陀洞。
ここに阿弥陀仏が安置してあるのではなく、風雪に削られた岩の洞が阿弥陀仏の姿を彷彿させているという、見る人に想像力を問いかける場所。
なるほど、言われて見ればそうも見えるか。
こんなにちゃんと見たのは初めてだった。
巌に巌を重ねる山寺・立石寺。
堂塔伽藍が散在し、周りの断崖には修行僧が篭った洞窟がありお堂が張り付くようにして建っている。
その一つ、断崖の上の大きな岩に建っている五大堂からの眺め。
JR仙山線の「山寺」駅が眼下に。
空中に浮いているような気分になる。これが本当の、極楽気分 ?
次の舞台公演では山形県内を代表する二つの方言、「庄内弁」と「村山弁」を話す二役と、合わせて四役を演ずることになっている。
そのための勉強も兼ねた故郷庄内地方と山形市を中心にした村山地方の旅、実りの多い初心にもどる旅になった。
演劇の原点にもどって、観客に訴える、観客と共感するエネルギッシュな現代演劇を創る。
決意を新たにした! !
輝 ☆彡 2013.5.28
咲く花のあれば・・・
「舘椿」に続いて次々と椿類が咲いている。
直径13センチもの鮮やかな紅色の花を咲かせる「バーバラクラーク」。
もう35年も前、日本橋のデパートの植木市で見かけてほれ込み、手持ちの金もないのに欲しくて欲しくて、予約しておいて後で受け取りに行った思い出のある、これも大事な椿。
白地に紅い斑入りの「日暮」が咲くと心がはずむ。30年以上の家族だ。
以前住んでいた所では玄関前の廊下にこの鉢を置いて育てていた。
ある日、廊下で人の話し声がするので出てみたら、小学校の入学式を終えて帰ってきたばかりの2軒となりのゆうちゃんが、満開の「日暮」とならんでお父さんに記念写真を撮ってもらっているところだった。
毎年咲く椿なのに、年によって咲き具合には大きな差がでる。この年この日の「日暮」は花数といい花色の鮮やかさといい、見事なまでに素晴らしい咲き具合だった。
もう10数年、ゆうちゃんと顔を合わせる機会はない。が、大人になったゆうちゃんの思い出の中にもこの椿が咲いていると思うと楽しくなる。
今年は、黄エビネもすっくと育って、晴れやかに花を咲かせた。地味ながられっきとした蘭の花。
風に吹かれて、やわらかに揺れる「白山吹」の若葉は優しく手のひらをなでてくれる。気持ち良く、風の動きを見せてくれる。
これらの花々に囲まれ愛でながら、『まくべっと』のセリフと役作りに励んでいる。
三國連太郎さんが亡くなって2週間、僕は役作りしながらもトレーニングしながらも、何かにつけて人間としての三國さん、俳優・三國さん、表現者・三國さんについて考えていた。
三國連太郎さんが監督した映画『親鸞 白い道』に、親鸞を慕い越後から関東へ共に旅をしながら一家を支える鍛冶の韓鍛(からかぬち)役で出演した。
1986年11月の伊豆修禅寺山中ロケに始まり、からっ風が吹き上げる土ぼこりの利根川河川敷ロケ、雪深い12月の奥只見ロケ、雪不足に悩まされて再挑戦を余儀なくされた翌年1月から2月の琵琶湖今津、姉川ロケまで、撮影現場や夜のスナックなど多くの時間をご一緒させていただいた。
親鸞と右端・韓鍛(からかぬち)
その間、折にふれて三國さんの言動からにじみ出たことは「不条理」と「表現」。
すき間なく打ち付けた五寸釘を踏み抜くように歩いた演技の事や、信じ難いエピソードの数々を聞きながら、三國さんがその言葉の奧に秘めたものは「不条理」と「表現」だと思った。
越後から関東へやって来た親鸞一家と右端の韓鍛(からかぬち)
親鸞を慕い一家を支える鍛冶屋の韓鍛(からかぬち)奥只見ロケ
当時山形市で発行されていた「やまがた散歩」1987年6月号に、僕が『親鸞 白い道』と『次郎物語』のロケについて書いたエッセーがある。『親鸞
白い道』についての一部分を書き写す。
私は去年11月から今年2月にかけて、映画「親鸞 白い道」の仕事に入っていた。俳優三国連太郎さんが、十数年の執念を実らせ、自ら監督をして完成を見た作品だ。
伊豆の山奥から始まったロケは熊谷、奥只見、琵琶湖今津ロケとつづいた。ロケは天気に左右される。二百人近いスタッフキャストが準備をしても、天気がそのシーンにあわなければ撮影できない。しかしこの「白い道」はふしぎに天気に恵まれつづけた。前夜の天気予報も、当日宿を出るころも、撮影シーンにあわない天候なのに、現場に着いて三国さんが空を見上げていると、暗くなった空から雪が降りだし、願ってもない吹雪になったりした。そんなことが何度かあって、みんなは「本当に三国さんには親鸞がついてる!」と思った。
日常はじつに優しい三国さんも、仕事になると厳しい注文を出演者に要求する。
夜襲を受けて逃げ出した雪の上で、子役もふくめ親鸞の家族五人と、行動を共にするわれわれ四人(朝鮮半島からの渡来人を先祖とする鍛冶屋の二組の夫婦。私の役名は韓鍛)は、歯をくいしばりながら素足で演技をしなければならなかった。冷たさに泣きだす子役をなんとかなだめなら、本当はみんな泣きたかった。それでも琵琶湖西岸の今津ロケは無事に撮りおえ、最後のロケ地東岸の長浜へ向かう。
冒頭シーン、雪の越後で親鸞一行が夜襲を受け、川の中州から脱出する場面は、どうしても雪がなければならない。ところが長浜の北、姉川の河口は、暖冬でこの時期一片の雪も残っていなかった。今夜から下り坂という天気予報に期待をつないで、翌日に備え入念なリハーサルをした。
オープンセットの十数軒の茅葺き小屋に一斉に火を放ち、その間の芝居を3台のカメラで別方向から同時に撮るのだから、失敗は許されない。どの小屋に誰が火をつけるか、どのルートを通って逃げるか、追っ手とどこで立ち回りをするかなど、カメラの角度、それぞれのきっかけを確認しながら、なんどもリハーサルをした。その合間に、私は休む暇なく舟を漕ぐ練習だ。川舟を安定よく漕ぐのは本当に難しい。今まで撮った舟のシーンは、時間がかかって大変だったという。こともあろうに私の舟は、この夜襲から逃れるシーンの最後の部分で、本職の舟頭が漕いでいる他の舟に、タイミングをあわせて岸から出さなければならないときている。ヘトヘトになるまで必死の練習を繰り返した。
翌朝は小雨。午後3時まで待機したが雪に変わる様子はみられず、今夜は撮影なしと結論が出た。
夕方散歩から戻ると、スタッフと出演者が食堂で盛り上がっている。酒を断っている三国監督が言い出して、雪乞いの酒盛りとなったのだそうだ。カンヌ映画祭参加の期限や封切り日を考えると、三国さんの落ちつかない気持はよく判る。
次の朝、雪が降っている。昨夜の願いが天に通じたか、5センチの積雪。ところが昼前に雪は止んでしまい、大事な地上の雪も消えてしまった。
長浜4日目は日本晴れ。あんなに三国さんに味方してきた天気のツキはどこへ行ったのか。紺碧の空に朝日がまぶしい。昼過ぎ、東京へ帰ると告げられ、2月に再度ロケに来ることになった。
2月になっても、雪は降らなかった。降らないどころか、再度米原駅に降りたとき、ホームの気温は14度を指していた。春一番が吹いた日だった。こんな日に撮影はないだろうと思いながら、急かされてロケ現場に着き、目を見張った。幾つもの雪の山ができている。なんと福井ナンバーのダンプカーが、列を作って雪を運んでいる。福井の山奥から、何時間もかけて持ってきたという。
前回同様リハーサルを繰り返し、比良の峰に陽が落ちるころ、築かれた雪の山が、地面や屋根に広げられた。風も止んだ。これなら火が飛ばないだろうし、なにより私は舟の方向がずれないから漕ぐのに助かる。
「本番いきまあーす!」助監督のハンドスピーカーが告げる。一番緊張するときだ。「小屋に火をつけて!」の声。乾燥した小屋はボーンと音を発して、一気に数十メートルの火柱を夜空に噴き上げた。次々と小屋に火がつけられ、炎が風を呼んでゴーゴーと渦を巻く。小屋の間にも炎が横に噴き出す。こんなに大きく燃えるとは想像していなかった。リハーサル通りのコースを逃げられるだろうか。「気を入れてしっかりやろうぜ、ケガするな!」と女房役の亜湖さんに声をかける。
「スタッフ、みんな隠れて!」「ヨーイッ!」カメラ三台が回り出す。火の勢いが最も強くなる。「スタート!」スピーカーの声は、もう炎の音にかき消される。
左の小屋の陰から親鸞の妻役の大楠道代さんが、二人の子役を連れて炎に囲まれた広場に駆けて行く。背にはもう一人、3歳の子役を背負っている。アクシデントが起こらないことを祈るほかない。大楠さんが広場の真中に立ち止まる。われわれが出て行くきっかけだ。私は韓鍛の気持になって、燃えさかる集落のなかに走り出した。
舟も最高のタイミングで漕ぎ出し、撮影は無事に終った。一息ついて本番の興奮が納まったころ、右のこめかみに水脹れができて、ヒリヒリ痛みだした。心配したスタッフがすぐ日赤病院に運んでくれた。撮ったフィルムを後で見ると、逃げながら右手で額を押さえている。このとき、火傷を負ったのか。これも咄嵯に韓鍛の気持を演じたものと、自分では思った。
僕は当時まだ「佐藤輝昭」を名乗っていた。
「不条理」と「表現」は僕にとっても大きなテーマだ。
尊敬する表現者・三國連太郎さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。
輝 ☆彡 2013.4.27
さくら満開!
今年は早い!
先週土曜日に開花宣言した桜が、昨日金曜日には平年より2週間も早く満開に!
早速、提灯がともる桜並木のベンチでビールと焼き鳥、のり巻きなどを食べながら夜桜を楽しんだ。
風がそよとも吹かないから温かな春の夜が気持ち良く、冷えたビールののど越しが快感! !
春休みに入った子供たちが走り回り、会社員のグループや家族連れが車座になって陽気な歓声をあげている。
野外でこんなにくつろいだのは久し振り、ふうっと肩の緊張がゆるんだ。
先週月曜日に、故郷の小学校の卒業式にお祝いの飛び入りサプライズ。
去年、創立50周年の記念講演をしたことがきっかけで生まれた余目第一小学校6年生たちとの心の交流が、地域の先輩と後輩たち以上の、身内のような強い絆を感じさせてくれた。
その子供たちが卒業する。その新たな門出を、直接祝って上げたい。
いても立ってもいられないそんな気持ちから学校に押しかけた。
小学校の正面玄関前に「広き野を 流れゆけども最上川 海に入るまで濁らざりけり」の歌碑が立っている。
昭和天皇が皇太子時代に、山形県の母なる大河・最上川の流れを讚えて詠んだこの歌は、いま「山形県民の歌」になっている。
僕はこの歌を、自分は人生をこう生きたい、人の人生もこうあって欲しい、との願いを込めた希望の歌だと解釈している。
その気持ちを込めて、卒業生の未来への期待とお祝いの歌として歌わせてもらった。
子供たちは僕の突然の登場にびっくりし、驚きと笑いのまざった声をあげたが、希望が溢れてこぼれそうな輝きの目で真剣に僕を見つめ、「最上川」を聞いてくれた。
みんなからもらった拍手の中で「最上川のような大河になってください。卒業おめでとう! 」と締めくくった。
希望を持ってさらに大きな川になっていく子供たちの門出に、僕は大感激した!
素晴らしい感性を持った、素直な子供たち。そのまま、成長して欲しい!
サプライズの様子は、その日夕方の山形放送(YBC)テレビのニュースで「県内の小学校で卒業式ピーク」の中の一つとして「"先輩"がお祝いに」と題して紹介されました。
輝 ☆彡 2013.3.23
(ニュース映像はYBCのホームページ、
YBC news
every3月18日 から期間限定で視聴できます)
ワクワク! !
バルコニーの「舘椿(たてつばき)」が今年も咲いた ! !
山形の生家の庭の実生から育てて、その地名を冠して大事に育てているヤブツバキ。
3年前までは1月上旬に咲きだしていたのに、東北大震災があった一昨年から、なぜか3月中旬になってようやく咲くようになった。
今年も本当に咲いてくれるのか心配していたので、ほころび始めた鮮やかな花を見て心躍った。この鮮紅色に元気をもらう春 !
幸いなことに僕は花粉症はないが、風邪や他のウィルス感染が心配なので冬の外出には必ずマスクをしている。
今年はマスクを二枚重ねにしている。
「PM2.5」、よくもまあ聞きなれない特殊名詞が次々と出てくるものだ。
僕の誕生日だった今月10日の午後、強風吹きつける曇り空が暗くなったと思う間もなく変な黄色に染まった。
てっきり中国から飛来した「PM2.5」まぶしの黄砂だと思って戸締まりをしっかりしたが、北関東の畑土がからっ風に吹き上げられた「砂じん嵐」とか「煙霧」とか言うものだったらしい。
紛らわしい気象現象は願い下げだ !
明けた11日は快晴の東日本大震災2周年。
いまだ進まない津波被災地の復興と、15万人が避難先からもどる故郷を失っている原発放射能被災地の現状には、歯がゆさを通り越して腹が立つ。
一刻も早く自分の家で暮らせるように、政府が強力に具体的に施策を実行して欲しい !
12日もスッキリ青空。緑道のハクモクレンが一気に満開になった。
空に明かりを灯したようなこの純白がまた心を躍らせる。
鉢植えの山椒もウコギも山吹もアジサイも、緑の若葉をすくすくと伸ばしている。街角では沈丁花、水仙が咲いて、柳の若葉が光っている。
秋に出演する舞台公演の翻訳台本が先月末に仕上がって、送られて来た !
早速初見で、全役のセリフとト書きを声を出して読んだ。
面白い !
おかしくて涙を流しながら笑っては、途中休み休みしながら読み終えた。
この台本の面白さを、演技でどう出せるか。
ワクワクしながらホンを読み込んでいる毎日。楽しい春。
輝 ☆彡 2013.3.15
アデランテ!!
このホームページ今年の初アップ、明日はもう節分という日になってようやく。
1月の時の流れの速かったこと。
初仕事は去年のカツラ合わせで久し振りに再会した僕専用のカツラをかぶって、薬種問屋の主人。
初仕事は今年1年を心に期する緊張感と喜びをもって、無事に終えた。
何十年も前にドラマで夫婦役を演じた女優、1カ月のミュージカル公演で存在を認めあった俳優。
ほとんど現場でしか会うことがないが、同じ世界で同じ時の流れを生きて活躍している役者仲間との再会は楽しく、大きなエネルギーを貰った。やるぞ
!
暮れから正月にかけて1週間、山形に帰省した。
運転は好きだし帰省先での移動を考えると自動車での帰省になる。
去年も、冬期の突発的な帰省に備えて11月にはスタッドレスタイヤに履替えておいた。
年越しそばは天童市の「一庵(いちあん)」で。
ここの「一庵そば」は「肉そば」用と「ざるそば」用の2種類のつゆで味わえる楽しみの上に大きなげそ天かぼちゃ天が付いて700円と超お得感。盛りは大きく、もちろん美味い!
宮城や福島ナンバーなどの県外車も多く、客が途切れないお薦めの人気店。
山形で言う「肉そば」の肉は、しこしこと歯ごたえ良く茹でられた鶏肉。
2年前正月3日に亡くなった義父の三回忌は、こじんまりと身内だけで、思い出を語りながらのイタリアン。
生前一緒に食べたかったけど叶わなかった山形市の「ボーノ」で。
ここは地元の新鮮な食材を生かして、真鯛のポワレなどスタンダードながら丁寧で繊細な料理を供してくれる。お気に入りの店の一つ。
映画『おくりびと』の冒頭、地吹雪のシーンは生家がある庄内平野の冬景色。
山形市から新庄を通って庄内地方に向かう途中には豪雪地帯で知られる大石田町や尾花沢市があって2メートル近い積雪。
雪の最上川に沿って庄内平野を目指す 水墨画の世界
雪が降り始めるとどこも真っ白でホワイトアウト、道幅も分からなくなる。
雪道の底は凍りついているから急ブレーキは絶対禁物、矢張りスタッドレスに履替えておいて良かったと何度も一人うなずいた。
実家で食べたシャキシャキきもとの酢みそ和えは庄内の早春の目覚め。それにこんがりと焼いた庄内浜で獲れたクチボソガレイ(マガレイ)、身が厚く甘みとうま味たっぷりのこの美味さには言葉が見つからない。
樹氷のライトアップがあると知って庄内から快晴の山形道を快走して蔵王温泉を目指した。
月山湖から寒河江に出て東の正面に見えた白銀の山並みの輝く美しさ。その南に蔵王連峰が白くどっしりと連なっている。西にかたむく夕日と競いながら、蔵王ロープウェイの蔵王山麓駅(855m)前駐車場に。
昭和48年の3月だったか、ゲレンデスキーの未経験者だった僕が単独で、それもGパンにアノラック姿の軽装で地蔵山頂からザンゲ坂樹氷原コースを樹氷高原駅まで滑り下った。あの時の身震いするほどの爽快感は今もよみがえる感動だ。
特に途中のカーブで立ち止まって眺めた、雲間から射した西日に照らされた樹氷原の刻々と変化する淡い虹色の美しさには息を呑んだ。まるで天上の世界を浮遊しているような快い時間だった。
あの時以来40年ぶりの冬の蔵王、蔵王の樹氷だ。
日没後の紅色から紫に変わる西空と黒く連なる朝日連峰の 山容を振り返りながら、ゴンドラは蔵王山麓駅から樹氷高原駅に向かう。
下の横倉ゲレンデではカクテル光線の中でゆったりと滑っているスキーヤー、スノーボーダーがちらほら。
昇るにつれて間近の温泉街全体から上山や山形の市街地の街灯もくっきりと見えて、夜空がぐんぐんと広がる。
幻想的な美しさに歓声をあげながらあたりを見回しているうちに7分ほどで476mを昇って中継の樹氷高原駅につく。駅のまわりがライトアップされて大きな樹氷群が浮き上がって見えて、気分はもう十分に満足している。
ここから上のゴンドラは無人の自動運転 !
12分ほどで地蔵山頂駅が近づくとあたりが広くライトアップされて樹氷原全体が見えてきた。そして、さっき満足したのは間違いだったと思い知らされた。さっきのは樹の形をした樹氷、今見えてきたのは雪の怪物モンスター。
地蔵山頂駅、標高1661m。気温、マイナス13.1℃。
奇麗だ !
モンスターたちの形の面白いこと。大きいこと。それがカラー照明に浮かび上がって陰影を作り色を微妙に変化させている。
想像力が刺激されて、頭の中で物語が組み立てられていく。おとぎ話の世界が見えてくる。
風が時折強く吹いて指がかじかむ。
駅舎の屋上からは東方40キロの仙台市街の灯が間近く見える。
歩くと靴の下でキュッキュッと雪が鳴る。
照明が反射して、雪の結晶がキラキラと輝いて動いているように見える !
メルヘンの世界だ。
いくら眺めていても見飽きることはないが、冷える !
熱いコーヒーがこんなにありがたく旨いと思ったことはないくらいだ。ふぅーぅッ!
まさに天然の美、素晴らしい蔵王の樹氷。
次は日中に、自然光の中でまた、千変万化する樹氷原を眺めたいと思った。
去年の12月24日、クリスマスイブは朝8時から夜10時過ぎまでを東京ディズニーランドで楽しんだ。
なにもかもがクリスマスバージョンに飾り付けられた中で、大好きな「プーさんのハニーハント」と「ビッグサンダー・マウンテン」「スプラッシュ・マウンテン」には2回ずつ、
幼心に返る「イッツ・ア・スモールワールド」、トゥーンタウンの「ガジェットのゴーコースター」、
僕のそっくりさんがいると言われている「カントリーベア・シアター」、定番の「ウェスタンリバー鉄道」「ホーンテッドマンション」はきっちりと押さえて、
パレードも花火も見て、あまり見ることがなかった「カリブの海賊」まで入ってしまった !
爽快 ! ! 快感 ! !
紆余曲折はあっても、こんな気分で2013年を歩んで行きます。
輝 ☆彡 2013.2.2
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