俳優・佐藤 輝-42

あそびごころの 佐藤 輝の世界 俳優・佐藤 輝 - 42
2017年12月2018年8月
   
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2017年12月2018年8月



花の山 鳥海山2,236mへ  

 今年8月11日、山の日。
 故郷の山、出羽富士・鳥海山。

 やはり長期予報と毎日にらめっこ。

 前日までの雨がこの日の朝には曇りに変わるとの予報を信じて、鳥海ブルーラインの鉾立駐車場でスタンバイ。
 暗く重かった雲がようやく9時頃から少し明るくなったし、これより遅い出発になったら山頂小屋に着く時間が遅くなる。

 人生初めてのポンチョ姿になって、9時半に小雨降る登山口に。
 わが登山人生で初めての雨天登山となった。

 展望台の手前で雨が止んだと喜んでポンチョを脱いで登り始めたら、またもバサバサと降ってきた。あわてて、また着込んだ。

 このコースは36年前に下ったことはあったが、登るのは初めて。
 行く先も回りもガスの中、次々と足元に現われる可憐な花に励まされて1歩1歩を進めることができた。

 11時を過ぎて、魔法使いが杖を振り回したかのように一瞬にしてさあっとガスが晴れた。
 陽が差す。
 回りも先の山も緑鮮やかに見通しが利く。

 ポンチョを脱ぎ、汗でびっしょりのシャツを脱いだ。風が気持ち良い!







 沢水の流れのそばに、ニッコウキスゲの鮮やかな黄色の花が雨の滴を身にまとって輝いている。







 このあたり、まだ雪が残っている。







 ここが最初のポイント。
 上にある雪渓の雪解け水を集めた流れを渡る「賽の河原」。







 「賽の河原」からゆったりゆったり、大きな雪渓を振返りながら50分ほどで、目の前に鳥海湖が広がる小浜小屋に到着。両手を広げて深呼吸。







 鳥海湖から東を見れば、ルートの先に、外輪山に包まれて、黒々と大岩が積み重なった山頂の新山が望める。

 その尾根道をたどれば扇子森を経由して御田ケ原へ。







 時々南側からガスが吹き上がって来るので庄内平野は見えないが、このあたりもお花畑が続いている。

 よくもまあこの高山に、これだけの石を運んで綺麗に並べたものだと、尾瀬の木道とはまた違った感懐をもつ長い石の坂道を下れば、今度は登る八丁坂。

 そして、先の七五三掛(しめかけ)に至ると、真っ直ぐは、時には大岩をよじ登らなければ進めなくなる文殊岳から外輪山を進むコースと、左に折れて外輪山から千蛇谷への沢をジグザグに下って雪渓を渡り、外輪山内側の絶壁を谷越しに右手に見ながら山頂小屋を目指す千蛇谷コースに分かれる。







 七五三掛で外輪山から一気に千蛇谷の底の雪渓に下る。







 外輪山内側の絶壁を右手に見ながら







 左側の谷沿いの道を山頂小屋を目指して上る。

 ほとんど無言で、その時間に耐えきれなくなってたまには自分を叱咤激励するうなり声をあげ、また黙々と登る。

 山頂小屋手前のジグザグの登りは、そこにいて夕陽を眺めながら楽しんでいる人たちの顔は見えているのに、登っても登っても登り切れないもどかしさ。







 それでも無事に登り切った。

 振り向くと、七五三掛から急坂を下り、雪渓を横断して谷の反対側に渡り、ただただ登ってきた千蛇谷が西日の陰をつくっていた。

 山頂の御室(おむろ)小屋に到着。
 受付で、先ずは、到着が遅くなったことを謝った。

 遅く着いた分、寝場所は2階の一番奥に。

 星が濃紺の空全部に広がって澄み切った光できらめいている。

 見とれる間もなく、体が震えて止まらない。冷え込んでいた。
 満天の星。

 垂直のハシゴを登って、足元はふらつくし、梁に何度も頭をぶっつけて、みんなの寝言とイビキを子守歌と思い込むようにして、いつのまにかぐっすり眠った。



    



 明けて、8月12日。快晴。

 朝日を受けて西側の日本海に、鳥海山の影が吹浦漁港を包み込むようにしてくっきりと伸びた。
 影鳥海。







 今朝も冷え込んでいて、まだ日陰になっている神社本社前の広場では体が凍える。

 母校、酒田東高校の校章にデザインされている鳥海山の固有種チョウカイフスマの小さな花が、可憐に岩の隙間に咲いている。

 高校時代、仲間で万助小屋まで行き1泊したことを思い出した。
 その時の友人たちの顔も。

 忘れていたが、あの時が最初の雨中登山だったことも。







 朝食。
 昨夜は食欲がなかった。今朝は卵掛けご飯にしたらするすると完食。







 持参のチーズでカロリー補給。







 さあ、いよいよ36年ぶりの新山山頂へ。

 御室小屋背後の溶岩の岩山を登る。










 途中振返ると、ぐんと視界が広がって、白い屋根の大物忌神社本社、社務所、山小屋の御室小屋、食堂などの建物が足元はるか下になり、さっきまでは南側の外輪山に遮られて見えなかった月山山頂も見えるようになった。 











 岩山を登り切ると、今度は急な北側の岩坂を下りに。

 両側の切り立った大岩の間の狭い底まで下りきる。ここが胎内くぐりと呼ばれるポイント。
 見上げると、先の岩山の天辺に登山者の姿が。

 あそこが鳥海山山頂だ !







 鳥海山2,236mの新山に登頂! !







 快晴の山頂に立てばぐるり360度の眺望が開けて身震いした。 

 北の彼方、雲海の上にぽつんと岩木山の頂。

 東も南も、東北地方の山々が見事に眺められた。 

 南西に目を転ずれば、酒田市街を中心に最上川横切る緑一面の庄内平野が広々と広がり、風力発電風車群と庄内浜の海岸線がくっきりと南に続いてその先には粟島の島影までが見える。







 登山者の人影が小さく稜線に見える外輪山越しには、遥か雲海に浮かんでいる月山、葉山、その左奥に蔵王山、月山の先には朝日連峰から飯豊連峰まで続いている。

 もっと先にうっすらと見えているのはひょっとして磐梯山か安達太良か。







 さっき通った胎内くぐり、こんなに大きな岩の間の細くて狭い落差の大きな岩の裂け目ルートだったんだ。







 帰りの下りルート途中で眺めた、外輪山から千蛇谷へ落ちる断崖の迫力にもしばし目を見張った。







 新山への往復2時間に満足したところで、さてこれから千蛇谷を下って帰路につく。意気軒高。







 この千蛇谷ルートは、紫色のアザミの花が道の両側から登山者を歓迎しているように沢山咲き、湯の台口ルートにあって「あざみ坂」と名前が付けられている急坂よりもアザミの花が多いと感じられる、アザミの道だ。

 2種類の花が見られ、この赤黒い花は鳥海山の固有種・チョウカイアザミ。

 下向きに花を咲かせ、ぐっと頭をもたげている姿に、僕は雪深い冬を耐え忍んだ力強いエネルギーを感じてとても好きな花だ。







 こちらがウゴアザミ、つまり羽後アザミ。
 鮮やかで明るい紫色が快晴の太陽に映える。







 千蛇谷から七五三掛に登る手前の雪渓。
 ここまで来たら下山の半分は来たようなほっとした気分になる。







 外輪山に登る途中の休憩台で一息。

 御浜への道が見えてきた。







 七五三掛から八丁坂を下る。







 このあたり、左手に、昨日はガスがわいてきて見えなかった庄内平野を見通しながら眺めるお花畑が楽しくて、ついつい足を止めてしまう。







 鳥海湖の背景には矢張り、故郷の庄内平野があって欲しいし、手前には高山植物の花があって欲しい。







 御浜小屋と鳥海湖の前に立って、新山からここまでの下山ルートを、あらためて振返る。







 御浜から賽の河原に下る途中、西日を浴びて光り輝くチングルマの綿毛に感動。







 賽の河原の上の雪渓はまだこんなに残っている。







 雪渓からの雪解け水が作っている小さな流れを渡る。







 綿毛になる前のチングルマの花。







 白い花火のような形のカラマツソウの花。







 登山口から舗装道路を散歩気分で登って来られる鉾立展望台。

 ここまで来たらもう一息。

 新山から御浜小屋、名曽渓谷尾根沿いのルートが一望。
 目の前の断崖に落ちる白糸の滝が、名前通りの白い筋を見せている。







 時は最早、日本海への日没直前。

 酒田から39km沖合に浮かぶ飛島の島影を浮かべて、日本海が暮れてゆく。







 さて今夜(8月12日夜)は、日本海に面した庄内浜の砂の上でペルセウス流星群の大ページェントを楽しみましょうかね。







 鳥海山は次々と花が目の前に現われる花の山。
 そして1歩登るごとに見る世界が変わる景観の見事さはまるでワンダーランドだ。

 滝の小屋ルートも、鉾立ルートも、外輪山経由も、千蛇谷経由も登りも下りも、どこを通っても大変な山だと言うことを身にしみて理解した今回の鳥海登山だったが、それでもこれが最後とは言わない。

 来年も登ろうと言ってしまう魅力的な山、鳥海山だ。

 この2日間、鳥海山を存分に楽しみ味わい尽くせた、素晴らしい夏の日だった。

        佐藤 輝 ☆彡 2018.9.29

         
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ようやく花火が・・・9月21日  

 今年の花火は8月1日、地元で楽しんだ。

 自転車を途中のスーパーに預けて、家から20分ほど。

 気軽が一番。
 河川敷に広げたシートに大の字になって真上に上がる大きな花火を、時々ナッツやお稲荷さんを食べビールを飲みながら堪能。
 夏、極まった。





        佐藤 輝 ☆彡 2018.9.21

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版画家 井上勝江さん 

 7月21日は、京王プラザホテルロビーギャラリーで開催初日を迎えた「黒と白、美しい色彩への回帰」とサブタイトルが付いた版画展「井上勝江と仲間たち 展」へ。

 歌手のジュディ・オングさんの版画作品も展示されているのは、井上勝江さんがジュディさんの版画の先生だから。

 井上勝江さんとの出会いは森川監督より更にさかのぼり45年前の10月。

 その年、僕が故郷山形のYBC山形放送ラジオで、毎週金曜日に2時間のディスクジョッキー生番組を持つことになり、その中に僕が東京でインタビュー取材するコーナーを作った。
 1回目は東京で活動する山形県出身者のインタビューにしたいと訪ねたのが、新宿コマ劇場筋向かい角のたばこ屋の地下にある「カドー画廊」で木版画展を開いていた長井市在住の版画家菊地隆知さん。

 インタビューを終えて紹介されたのが菊地さんと同じ「日本板画院」同人だった井上勝江さん。







 以来、東急日本橋6階画廊での板画院近作展や個展、毎年6月上野東京都美術館の板院展などでどんどん成長しダイナミックに咲き誇る大輪の花の作品を楽しませていただき、ジュディ・オングさんを紹介していただいたり、また出演した舞台を何度も観ていただいた。

 創作意欲は更に旺盛で、昨年発表された100号の「うすずみ」は夜の闇に浮かび上がる根尾の薄墨桜の妖しい広がりを細かに壮大に表現して圧巻。
 桜の精が背負う闇の世界に吸い込まれるようだ。

 これからも創作のエネルギーを貰いに、井上勝江さんと作品に会い続けたいと思っている。

        佐藤 輝 ☆彡 2018.9.21

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森川時久監督と三鷹のすし哲郎  

 昭和41年のフジテレビ大ヒットドラマ「若者たち」。
 ザ・ブロードサイド・フォーが歌った主題歌の「若者たち」もヒットして、時代を象徴したドラマとして大評判だった。

 そのドラマの演出の中心となったのが森川時久監督。

 僕はそれから12年後、1978年放送のTBS「八甲田山」で初めて仕事をご一緒させていただいた。

 以来、テレビドラマ「陽はまた昇る」「あゝ野麦峠」「望郷・美しき妻の別れ」「死刑執行四十八時間」、映画「きみが輝くとき」「次郎物語」「童謡物語」「ハルウララ」など多くの森川作品に出演させていただいた。

 福島、岳温泉での雪中行軍ロケから40年のお付合いをいただいている。

 聖蹟桜ヶ丘のご自宅にもお邪魔して、奥様の手料理を腹いっぱいご馳走になったり、ひとかたならないお世話になりっ放しだ。

 ここ数年は三鷹にある「すし哲郎」でご夫妻と落ち合って美味いすしと肴を味わい杯を重ねながら会話を楽しむことが多くなった。

 6月28日、今年初めての「すし哲郎」。







 「すし哲郎」は奄美出身の篤(とく)哲郎さんのすし屋。

 駅から6、7分ほどの住宅街にあるカウンターとテーブル11席のこじんまりした店。
 篤さんが一人で気配りのできる席数にしたと言う。

 居心地がとっても良い。

 篤さんと森川監督との関わりは、監督の奥さん方子さんが、銀座の一流すし屋で修業していた篤さんの握る味にほれ込んで、その味の追っかけになったのが始まり。

 後に、独立した篤さんの所在が掴めなくなって、捜しに捜してようやく探し当てたのがこの「すし哲郎」だったとのこと。

 一度篤さんが握るすしを食べたら、次に哲郎に行くことを楽しみにして、ほかのありきたりのすしなら何年食べないでいても我慢できると思える、そんな見事な絶品!!
 奥さんが篤さんの味の追っかけになった理由がわかる。

 選び抜かれた旬のネタの仕入れから、手の込んだ仕込み、仕上げの包丁さばきまで、超一流の感性と技の結晶が客の感性を目覚めさせる。
 別格のすしだ。唸る。本当に美味い。

 最近は、店の常連さんに『ラ・マンチャの男』の、サンチョのファンがいることがわかって紹介され、その方たちとご一緒になる時には興が乗ると「見果てぬ夢」や「旦那が好きなのさ」を歌い、更に発展して、昨年は監督の88歳米寿祝いの気持ちを込めて、森川監督が発想した「次郎物語」の主題歌、スメタナ作曲「モルダウ」をもとにさだまさしさんが補作曲して歌った「男は大きな河になれ」も生で朗唱して楽しんでいただいた。
 この歌詞には、森川監督の人を思う優しさや人生を生きるエネルギーがあふれている。



   
   1978年4月 映画「次郎物語」佐賀県神埼町 原作者下村湖人生家ロケ


        佐藤 輝 ☆彡 2018.9.21

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  「すし哲郎」0422-55-8960


いよいよ始動! 生きるよろこび  

  このホームページの更新もままならないほど、春先から諸々の多忙で落ち着く暇がない日々が続いてしまった要因は、11月に企画したオフィス天童の「生きるよろこび」公演準備。

 台本構成から始まって会場設定など、細かな積み重ねがあって、基本の台本がようやくできあがった。
 先月には会場となる神楽坂のライブホール・TheGLEEで宣伝写真の撮影が行われた。

 そして、初めての本読み。







 花柳寿楽さんは日程が重なって参加できなかったが、浅井ひとみさん、吉田賢太さん、堀口幸恵さん、それに演出も兼ねている僕と、出演者4人で作品の流れや漢字の読み方、役の捉え方、上演時間などについて話し合った。
 夫々が、秋の本稽古に向けて感じるところがあったようで、気が入った。

 演出としてはこれから更に構成台本の直し、音楽、照明の打合せ、転換を考えながら道具設定などやるべきことは目白押し。

 やるぞー!

        佐藤 輝 ☆彡 2018.9.21

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続いても・・・さかのぼって6月 尾瀬 

 今年も6月の尾瀬を楽しんだ。

 長期天気予報とにらめっこした甲斐あって、3日4日と晴天!!

 今までは福島県桧枝岐の沼山峠から尾瀬沼経由で尾瀬ヶ原に入ったが、3回目の今年は初めて群馬県側の鳩待峠から。







 山の鼻の山小屋村を出て、西側の至仏山(日本百名山 2,228m)を背にして東西に広い尾瀬ヶ原の木道をゆったりと歩く。







 尾瀬ヶ原の東、行く先にそびえて出迎えてくれるのは、これも日本百名山に数えられている東北地方の最高峰、2,356mの燧ヶ岳。







 尾瀬ヶ原最大の水芭蕉群生地として知られ、撮影のベストポジションとなっている下ノ大堀に近づいて、あれェ!? 

 白い花が!? 少ない! 水芭蕉がァ・・・



      
      去年6月6日にはこんなに咲いていた水芭蕉







 下ノ大堀の大群生地では少なかったものの、尾瀬ヶ原の至る所に水芭蕉は白い花を咲かせている。







 木道の先に、今夜泊まる見晴の山小屋集落が見えてきた。




 尾瀬ヶ原東端にある見晴の山小屋集落。今年も泊りは第二長蔵小屋。


 小屋の管理人に聞くと、今年は季節の進みが例年より1週間ほど早く、そのせいで水芭蕉も盛りを過ぎてしまったとのこと。
 確かに、至仏山の残雪が去年とは比べものにならないほどに少なかったし、去年は冬枯れの植物たちが黒く地面を覆っていた草原湿原も、今年は若草が萌えて緑一色になっていた。

 思えば、去年は雪の消えるのが遅かったとのことで、雪山登山かと戸惑うような沼山峠と白砂峠の雪の深さに苦労したことを思い出した。

 水芭蕉の花の見ごろも年ごとの気象条件によって相当に変わるものなのだと納得した山小屋の夜だった。


 翌日、見られなかった大群落の水芭蕉の代わりに、この時季だからこその貴重なよろこびがあった。


幻の花 トガクシショウマ




 思いもよらなかった、幻の花と呼ばれるトガクシショウマ(戸隠升麻)との出会い!!

 それも、こんなに沢山の花が見事に咲いている。

 大感激だ!!







 温泉水の流れが地温を保っているなどの微妙な自然環境があって、ここの狭い範囲だけに咲いている貴重な幻の花。

 6枚の薄紅色の花弁は実は萼片で、実際の花はその中に黄色味をおびた白い丸い形でつつましく納まっている。可憐な幻の花トガクシショウマ。

 この自然環境が人為的に破壊されることなく、訪ねる人たちがいつまでもこの貴重な花に出会える感激を味わい続けられることを祈った。







 帰路、東電小屋経由で山の鼻に向かう途中、振返ると浮島が浮かぶ池塘に逆さ燧ヶ岳が映っていた。

 尾瀬には、またきっとやって来るよ。 







 山の鼻で小休止。

 地元特産の花豆を入れたソフトクリーム(500円)で一息ついた。

 ここで元気を回復しておいて良かった。

 鳩待峠までの帰りの上り坂は、思ったよりもきつく、息切れしながら登った。

 峠の売店でも花豆ソフトクリームを売っていた。400円也。んン?

 でも、あそこで食べたからこそ登って来られたのだと納得。

        佐藤 輝 ☆彡 2018.9.19

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スペイン絵画の華がやってきた・・・のは 

 プラド美術館展のベラスケス。

 3月の箱根宮ノ下富士屋ホテルから一足飛びに5月末の西洋美術館へ。それもアップしたのが9月19日。お待たせ?しました。
 
 マドリード在住の山田進さんが2月に教えてくださった、東京上野・西洋美術館での「プラド美術館展」。

 マドリードを訪ねるたびにスペイン美術の世界に浸ったプラド美術館の雰囲気に東京で再会できると喜んで、早く行きたいとずうっと思って思っていたのに、諸々の多忙で落ち着く暇がない日々が続いてしまい、ようやく入場できたのは東京での展示終了2日前、5月25日になってしまった。







 もう一度、プラド美術館の広々とした展示室でこの絵たちとゆったりと再会したいと熱く思った。

 世界各都市で暮らす人たちが地域と生活に密着したレポートを書いているホームページのスペイン・マドリードのリポーターは山田進さん。

 実に面白い裏話や「へぇ!? そうだったの!」と納得の常識違いが表現力豊かにレポートされています。

 スペインに興味をお持ちの方に絶対のお勧めページです。
 https://kc-i.jp/activity/kwn/yamada_s/

 スペイン! スペイン!!

        佐藤 輝 ☆彡 2018.9.19

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春は食欲! テーマパーク富士屋ホテル 

 早々の桜満開と晴天続きの初夏陽気に誘われて、ひさびさの箱根へ。

 平日なのに小田原厚木道路を降りた途端に大渋滞。
 箱根湯本の通りはバスを待つ人、土産物屋を巡る人、こんなに沢山の客がやって来る温泉地なのだと再認識した、人、人、人、・・・

 10メートルほど進んでは停まり、また進んでは停まるを繰り返して、そのゆったりの時間、以前50ccバイクで来た時に食べたはつ花そばの味を思い出したり塔ノ沢一の湯の一夜の発端が何だったかを考えたり、萌えはじめた早川対岸の山の美しさに見とれたり、大平台の急カーブの先に咲き誇る枝垂れ桜の鮮やかさにここだけはもっとゆっくり走りたいなどと勝手なことを考えているうちにくねくねカーブが終って宮ノ下の集落へ入る。

 通りの先に、箱根駅伝のテレビ中継ではいつも紹介される富士屋ホテルの特異な建物が見えた。




明治24年竣工の富士屋ホテル本館。大きなガラス窓のサンパーラーは昭和10年大改修までは正面玄関だったところ。その2階が今宵泊まる部屋。



 ここ富士屋ホテルは34年前にテレビ番組「松本清張事件にせまる」のロケで、佐分利公使を乗せた自動車の運転手役で訪れて以来。
 その時は、和洋折衷と言うよりは形も色も支離滅裂ゴッチャ雑ぜの変な建物という、余り良い印象をもたなかった。




本館に続く右側の建物2階がメインダイニング「ザ・フジヤ」。



 僕が持っている印象とは正反対に、その富士屋ホテルがなぜこんなにも世に知られて、5つ星の宿に選ばれるほど評判が良いのか?

 よし、この機会に富士屋ホテルを知り尽くそう。それがこの1泊の目的になった。




メインダイニング「ザ・フジヤ」にて。



 ホテルのホームページで館内ガイドツアーがあることを知って「これ、これ !」と早速参加。

 集合場所は「花御殿」B1のクラシックチャペルと聞いて向かった「花御殿」。
 外から「花御殿」の玄関に入ると、そこは何とB2フロアだった。つまりは玄関からB1に降りるのではなくてB1に昇る、この不思議さにまずは驚かされた。

 小さなロビーから階段を上ったB1フロアにあるクラシックチャペルには1900年製の大きな円盤オルゴールがあって、そのオルゴールが奏でる「アヴェ・マリア」の素敵な響きから、30人ほどが参加した館内ガイドツアーが始まった。




メインダイニング「ザ・フジヤ」からの眺め。「花御殿」から右に白い「西洋館」、奥にモダンな「フォレスト館」。



 このオルゴールが作られた年より22年もさかのぼる1878年(明治11年)に外国人客向けに創業した富士屋ホテルの来歴と創業者の思い。その意思を継いでアイデアを爆発させたヒゲの後継者。

 個性的な語り口調の説明を聞きながら「平和通り」と呼ばれる廊下の天井照明を眺め、本館へ。
 そしてガイドツアーのフィナーレは、メインダイニング「ザ・フジヤ」。

 微に入り細に入り、徹頭徹尾凝りに凝った手仕事の数々。
 日本工芸美術の粋が上にも下にも、つまり天井にも壁にも柱の足元にさえ隅々まで施されている仕掛け。ワンダーランドだ。
 あの場違いに自己主張している極彩色の模様は、何とまあ、トーテンポールからの発想だと言う。

 発想と業績を聞くと、そのすべてがこの建物の形と色、内外至る所に見られる手の込んだ装飾工芸品の数々に凝縮しているいるのだと納得させられる。

 そうか、ここは外国人客を喜ばせるために造られた和の伝統を基調にしたテーマパークだったのだ。

 その目線で見回すと、今まで自分の好き嫌いだけで見ていたものが、夫々の個性と味を持った面白い存在として次々と目に入って来る。
 このエキゾチックなテーマパークは外国人客に受け入れられて大いに喜ばれたに違いない。

 外から見ると2棟に見える「花御殿」、2棟の白い西洋館、本館、それにメインダイニングのある食堂棟、これらは全棟が繋がっていて、時々自分がどの棟の何階にいるのかがわからなくなる。歩けば、階段を昇り降りするたびに、角を曲がるたびに目の前の世界ががらりと違って見える、次元すら変化する世界。

 ミラクルボールのように変化するファンタジックなテーマパークだ




この階段もその1つ。1階から2階に、別世界への夢を誘ってくれる。



 2階の部屋から、「晩餐! 晩餐!」の世界へ、胸をワクワクさせながらメインダイニング「ザ・フジヤ」を目指して降りる。







 創業当時、日本のフランス料理のレベルアップをはかって全国から生徒を募り料理学校まで開いた歴史を持つ「ザ・フジヤ」。

 柱の角の根元には鬼が目を光らせている。
 髭男爵と呼ばれた3代目経営者山口正造が、自分の顔をモデルにして「しっかりと仕事をしているか」と従業員の仕事振りに目を光らせているのだと言う。

 その伝統に根ざした「ザ・フジヤ」の味に期待した。




フォアグラのテリーヌ




金目鯛のマリネ 柚子風味のヴィネグレット




帆立貝のサラダ仕立て キャビアと雲丹添え




トマトのポタージュ




ホウボウのポワレ 香草入りブールブランソース




牛フィレ肉のステーキ ジャルディニエール風




牛頬肉のブレゼ 野菜添え




うまい! 美味しい!
このレベルの高い味わいに、自然にこんな顔。




いちご入りチョコレートプリン




このとろりととろけるマイルドな甘さの中にいちごのさわやかな甘さと歯触りが! ぺろりッ!! 嬉しいボリューム!!!




ストロベリーメルバ



 あぁあァ コーヒーも味に深みとたっぷりのコクがあって、目も舌ものども大満足。

 レベルの高い2つのコースをたっぷり味わえて、特別な記念日になった。

 富士屋ホテルの奇抜な外観も過剰とも言える装飾も、すべてはこのメインダイニング「ザ・フジヤ」のレベルの高い味を楽しんでもらうために用意された仕掛けだった。
 なるほど、これならば宮ノ下の富士屋ホテルの評判が上がるのは当然だった、と納得した。

 自室のクラッシックな洋式バスに温泉を入れてのんびりゆったり体をほぐして、あとはぐっすり安眠!




翌日も爽やかな快晴 !



 ここまで読んで「よし、富士屋ホテルに行くぞ !」と決意された方には誠に申し訳ないのですが、宮ノ下・富士屋ホテルは4月1日から耐震補強工事のために休館しています。その気にさせてスミマセン。

 僕の新年度も体調万全、世界はくっきり、トレーニングと観劇、資料調べに暇無しです。

 大谷翔平!! すごいぞ2試合連続ホームランの大活躍!!! そして爽やか。

 それに引き換え、言いたくはないが・・・日本の・・政治状況。

        佐藤 輝 ☆彡 2018.4.6

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春は椿と・・・・ 

 自然の色はホントに美しい。

 紅の椿。

 僕に本物の春到来を毎年知らせてくれるのは鉢植えの薮椿の鮮やかな紅色。

 今年も咲いてくれた。







 生家の裏庭に生えた実生苗から成長したこの鉢植えの舘椿は故郷の春の始まりの喜びをも思い出させてくれる。

 日ごとに夜の訪れが遅くなって、昼が長くなったなぁと感じられるこの頃の春の陽光と一緒になって、冬の寒さに耐えてちぢこまったこころを温かく心地よく目覚めさせてくれる。

 なのに、蕾がふくらんで色づいて、明日は、明日の朝には今年の最初の花が開くと楽しみに待ちに待ったその朝の明け方、ギャーギャーと鳴き喜ぶつがいのヒヨドリの声とともに無残にも食いちぎられてしまった。

 だから、この花は次に咲いた今年の二番花。
 ふくらんで色づいた蕾のまわりに七夕飾りの残りの銀紙を短冊にしてひらひらと吊るした。 
 そして翌朝。
 ヒヨドリのギの音も聞こえず、無事にみごとに咲いてくれた ! !

 その日は何度も何度もベランダに出て、舘椿を慈しんだ。







 前後して、侘助(ワビスケ)も咲いてくれた。
 やはり、これも二番花。
 うす碧味がかったピンクの花は、こじんまりとして、これ以上開かない慎ましさが名のとおり侘びの世界。
 茶花にぴったり、ベランダの片隅をほのぼのと明るくしている。

 しばらくは早朝のヒヨドリを警戒する日が続く。



2018年 

 このページ、今年初めてのupとなった。

 新年は帰省先で雪かきの日々。

 元気に雪を放り上げて汗をかいた。








高麗屋三代襲名披露初春大歌舞伎 

 正月気分満杯に着飾ったお客さんが期待に胸をふくらませて、次々と吸い込まれてゆく歌舞伎座。










 二代目松本白鸚さん、十代目松本幸四郎さん、八代目市川染五郎さんを中央にして、藤十郎さん、吉右衛門さんをはじめ舞台にずらり居並んだ幹部俳優皆さんのお祝い口上の和やかで晴れやかで整った美しさを楽しみ、幸四郎さん染五郎さん親子が義経と弁慶の主従を演じた『勧進帳』の緊迫感にぞくぞくし、その世界をがっちりと支える吉右衛門さん演じた富樫の大きさに感激した豪華な舞台だった。







 嬉しかったのは、客席には僕がサンチョ役で出演していた『ラ・マンチャの男』をご覧になったお客さんも多く、僕に気付いて「白鸚さんのセルバンテスも是非観たいですね。」「佐藤さんのサンチョはとても良かったです。今でも思い出します。また出てくださいね」と声をかけてくださったこと。
 10年経っても感動を語っていただけるなど思いもよらなかったことで、涙が出るほどありがたく、嬉しいことでした。
 サンチョを演じさせてもらえたことを誇りに思います。


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東京も雪景色

 1月23日朝。
 朝日が反射して眩しいこと !

 とは言え雪国の雪の量とは比べ物にならないのにあっちでもこっちでも、雪の時には外出するなと言われているのに、トラブルが続いて・・・。

 それにしても、その後の福井や新潟など各地の連続豪雪にはただただびっくりしたり呆れたり、同情する他ない。雪国の自治体は除雪費用の増大に苦労していると聞く。







ラ・マンチャが ! 

 それでも春はめぐり来る。この僕にも。

 風車に立ち向かうドン・キホーテと従うサンチョの立体ペーパークラフトが春風に乗ってスペインからやって来た。

 二つに折り畳んだカードを開くと、何と、見事な円筒形になって風車が立ち上がったのには感心した。

 ああぁ ! ラ・マンチャの丘に広がるカンポ・デ・クリプターナの風車だ !

 嬉しい嬉しい春の風。







 春風の送り主はマドリード在住37年、スペイン語と日本語の通訳をお仕事にしている(と、僕は理解している)上にスペイン紹介もしている山田進さん。







 ペルーで日本大使公邸占拠事件が起きた際に急遽スペインから呼ばれて現地で同時通訳を担当した、生きたスペイン語のスペシャリスト。

 日本語の表現も素晴らしい。
 山田さんの感覚あふれる日本語でユーモアを含み、専門にしている技術分野的分析力で紹介している「日本から見るスペイン」と「スペインから見る日本」が重なり合って面白い深みをのぞかせてくれてくれる「Knowledge Warld Network」を楽しく読ませてもらっている。
(http://kc-i.jp/activity/kwn/yamada_s/)

 最近の掲載は「プラド通信・番外編」「豆が主役」「プラド通信」「羊の行進」「コロンブス・デー」「お盆・帰省・薮入り」「こんな所に日本の職人魂」「プラド・プライド」「美術館の中に出来た美術館」など、読んで納得の魅力的な世界です。
 意識しないで通過してしまっているスペインを、思いっきり意識させて「ああァ、そうだったのか !」と心底納得させてくれます。ぜひ、読んでみてください。

 2005年にひょんな切っ掛けがご縁で知り合い、『ラ・マンチャの男』のサンチョの役作りのために訪れた2008年1月のマドリードで初めてお会いした。
 
 去年は日本で、陽春の日本橋で山田さんご夫妻とご一緒に昼食を楽しむことができた。
 この時期に山田さんは体のチェックを兼ねて帰国する。そしてダイナミックに国内旅行をしている。
 その時にラ・マンチャの風を僕に届けてくださる。毎年。
 ありがたい、ありがたい、サンチョの心を支えてくださる熱い励まし。
 
 「豆が主役」のスペイン料理《Cosido Madrileno コシード・マドリレーニョ》サンチョ風に挑む !


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末木利文さん 

 下のパンフレットは今から丁度50年前、1968年4月に劇団俳優小劇場が発行した演劇パンフレット。

 「公演」ではなく、劇団の新機軸として「類型的、処理的、な芝居作りより脱却」(同パンフレット《劇団ニュース》より)した「本演」と呼ばれた初めての演劇上演は「フランス演劇研究会No.1」として、フランスのローラン・デビュアール作『ないーぶな燕たち』だった。

 翻訳と演出は、フランス留学から帰国したばかりの新進演出家末木利文さん。







 渋谷駅から246号を渡って10分たらずの鴬谷町にあった劇団俳優小劇場は後に解散してしまったから、今ではその名称すら知らない世代が多くなったのは当然だが、知的で明晰なスーパー頭脳から繰り出された創造力を駆使して日比谷野外音楽堂や渋谷山手教会礼拝堂での壮大な『オイディプス王』公演をし、観客の心を喜ばせ生命力をかき立てた新劇寄席と銘打った『カチカチ山』『こい』『とら』『ろば』などの舞台を創った演出家で劇団代表だった早野寿郎さんをはじめ、小沢昭一さん、小山田宗徳さん、小林昭二さん、露口茂さん、上田忠好さん、早川保さん、江角英明さん、山口崇さん、楠侑子さん、宮崎泰子さん、黒田絢子さん、冨田恵子さん、山崎左度子さんなど錚々たる演技陣がそろっていた。

 また、文芸部には白井健三郎さん、岩瀬孝さん、岩淵達治さん、末木利文さんが、演出部は早野寿郎さん、高田一郎さん、藤田傳さん、浅沼貢さん、関矢幸雄さんなど、息を呑むようなメンバーだった。
(劇団俳優小劇場『日と火と碑と人』佐藤輝出演記録 をご覧ください)

 既成の演劇概念にとらわれない斬新な舞台を次々と発表して演劇の新時代を切り拓き、多くの若者たちを惹きつけて小劇場運動の先駆けとなった大人気の創作エネルギー溢れる劇団だった。

 今でこそ劇団の稽古場や小劇場、ライブホールなどでの公演が普通のことになっているが、当時初めてと公表して一般観客が観劇したこの稽古場上演はほとんど宣伝しなかったにもかかわらず評判に評判を呼び全上演が超満員の観客で溢れた。







 劇団の新機軸のスタートを担った演出家・末木利文さんが、劇団のみならず広く演劇界からどれほど大きく期待されていたかが理解できる。










 寄せられた数々の文章に、「本演」と称した新しい挑戦への期待と、戯曲『ないーぶな燕たち』そのものへの期待、そして具体的に舞台化する末木利文演出の新しい革新に対する熱い期待が読み取れる。



恩師・末木利文さん 

 僕はそれまで続けてきた俳優修業を見直したい、求める演劇を身に付けたい、広く活動したいと考えて、1963年に劇団俳優小劇場付属俳優養成所2期生となった。

 山手教会礼拝堂で筆記試験、パントマイムと朗読の試験は桜ケ丘を越して谷道を横切って少し坂を登った右側にある木造の大きな稽古場だった。

 評判の劇団だったから受験生も多く、競争率は8倍、32名が同期生となった。

 4月に入所して直ぐに体験したのが、劇団新機軸の「本演」と呼ばれた上演第1回目『ないーぶな燕たち』だった。

 時間の許す限り、稽古を見せてもらった。

 末木利文さんの演出と、黒田絢子さん、江角英明さん、山谷初男さん、それに猪俣光世さんも加わって、渋谷の古ぼけた木造稽古場の空気が、日に日にパリの下町の空気に変わっていくのを息を詰めて見ていた。演劇の面白さ、創作の奥深さを噛みしめた。

 稽古場は新しい演劇を体感したい観客の期待と熱気にあふれていた。
 開演すると、客席はぴたっと静まり、一瞬たりとも見逃すまいとする緊張感が張りつめた。

 小さな演技空間から、出演者のリアルな存在感と登場人物の心の揺れが繊細濃密に、ひたひたと客席に広がって伝わってきた。素晴らしい感動だった。




1968年6月11日〜16日 劇団俳優小劇場公演No.25『鍵束の鳴る刻』パンフレットより
文中に見られる「俳小」表記は、1960年に結成された「劇団俳優小劇場」の略称として広く使われていた。1971年6月の劇団総会で劇団俳優小劇場解散が決議され、その時、解散後は「俳優小劇場」も「俳小」も関係者は一切使用しないこと、と全員で付帯確認した。



 この見事な舞台を演出した末木利文さんは養成所の講師も務めていた。

 バレエ、フェンシング、体操、狂言、音楽、朗読、演技などの授業があり、その間に小沢昭一さんや照明家・浅沼貢さんの特別講演、6月には全員で藤田傳作・演出『鍵束の鳴る刻』公演へ笑い声参加、そして7月に稽古場で第1回発表会があった。




7月の第1回発表会でバレエの発表。



 秋風が立ちはじめた頃、末木さんの奥さんで養成所同期生だった藤井杏子さんに声を掛けられた。

 「佐藤さん、養成所の授業料の滞納はあるの ?」

 突然の、思いもよらない質問に虚を突かれて戸惑った。

 レッスンには欠かさず出ているものの、ここ数ヶ月、確かに滞納している。

 どぎまぎしながら頷くと、杏子さんは続けて「内のが困っていて・・・」。内とは末木利文さんのことで「何を?」と訊く間もなく、「滞納している人は次の発表会に出られないことになったんだって・・・、それで、佐藤さんに配役ができないって、困っているの・・・」。

 第2回発表会は末木さん演出でモリエールの『ベルサイユ即興』を上演することが決っていた。
 頭の中で何かがぐるぐる回って、答えが見付からない。

 しばらくして杏子さんが意外なことを口にした。

 「もし、佐藤さんが差し支えなければ・・・、私がその分を貸してあげたいの・・・・」

 12月の発表会で僕は、末木利文演出によるモリエール作『ベルサイユ即興』のモリエールを主演させていただいた。




1969年3月13日劇団俳優小劇場俳優養成所2期卒業公演パンフレット
第2回発表会のことが載っている。『ベルサイユ即興』写真、手前左がモリエールの佐藤輝昭。



 劇団俳優小劇場の養成所でこのモリエールを演じられたことが、その後の僕の役者人生にとってどれほど大きな力になっているか、今振り返って見ると良くわかる。
 俳優の芽を見つけてもらい育てて伸ばしてもらった、転機となる大事な1年だったと思う。
 お陰で、翌年春に養成所を無事に卒業、劇団俳優小劇場に入ることができた。

 末木利文・藤井杏子夫妻は僕の大恩人だ。




卒業公演パンフレット




卒業公演 ウィリアム・サローヤン作 早野寿郎演出『わが心高原に』 左端が保線工夫サム・ウォーレス役の佐藤輝昭




卒業公演パンフレット 卒業生への講師の皆さんからの送る言葉



大恩人・末木利文さん 

 大恩人の恩師が昨年12月17日に亡くなった。
 演出家・末木利文さん。まだまだ若い78歳。

 2月4日に西池袋のスタジオPで「末木利文さんとのお別れの日」があった。

 この場所は末木さんが多くの作品を演出した木山事務所があり、僕の高校の先輩だった演劇製作者・木山潔さん亡き後はPカンパニーが拠点にしている稽古場。
 もっと遡れば、ここには末木さんのお父さんが経営していたアパートがあって、末木さん夫妻もここに住んでいた。
 卒業公演の後、同期のみんなで押し掛けて大騒ぎして楽しんだ思い出の場所でもあった。

 そんな50年の時の流れを思い返しながら、末木さんが好んだサントリー角瓶とビール、眼鏡と黒いハットが飾られた遺影に献花した。







 杏子夫人にお悔やみを言いながらも、長女でジャズシンガーの末木文さんの素敵な歌声を聞きながらも、心の中で、僕は末木さんにお詫びを繰り返した。

 あれだけの多大なご恩を受けながら、何一つご恩返しができなかったことに悔いが残っている。

 末木さんからは何度も出演のオファーをいただきながら、いつも都合がつかずに、その内その内きっとご一緒に、ご恩返しをと思っているうちに永遠の別れとなってしまった。     合掌


 東日本大震災から7年。
 亡くなられた多くの方のご冥福をお祈り致します。
 被災された皆さんの健康をお祈り致します。

        佐藤 輝 ☆彡 2018.3.11

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目指すは3,026m !  乗鞍岳山頂剣ケ峰 !! 




山頂の神社と鳥居が見える。もうすぐそこだ ! がんばれサトウテル ! ! でも、もう空気は薄い。



 9月10日、朝4時10分、松本市安曇にある乗鞍高原観光センター前バス停からご来光バスが発車。

 真っ暗い乗鞍エコーラインをくねくねと左右にカーブしながらどんどんと高度をあげる。
 標高約1,500mから一気に2,700mの畳平手前の長野岐阜県境ゲートまで50分。

 くねくねカーブと酸素濃度の低下で少し気分が悪くなったが、バスを降りて大きく深呼吸を繰返したら体調が回復した。

 ゲートから南に向かって、5時18分の日の出時刻に間に合うようにと富士見岳(2,817m)山頂を目指した。が、強風にあおられて足元が安定しないので風下の岩陰でご来光を待つことにした。







 今登ってきたルートをたどって北にある大黒岳(2,817m)方向を見ると、その先に、北アルプスの名峰・槍ケ岳(3,180m)が穂高の峰々を南に連ねて槍の穂先をつんと立てているのが明け行く茜の空を背景にしてくっきりと見えた !




北アルプスの名峰・槍ケ岳(3,180m)



 大感動 !

 3,000m級の山々を水平方向に望める雄大・広大な展望に息を呑む。

 そこに立っていることのダイナミックさ。







 間もなく東の空の雲の切れ目からご来光の光芒が空に広がった。

 直ぐ上の山頂からも、下にいるグループからも、遠く大黒岳山頂からもバンザーイの声が湧き上がった。







 ご来光の光の中で、気分最高 ! !

 富士見岳山頂へ、風に耐えながら、アデランテ !




富士見岳山頂。後方は山頂に乗鞍観測所(旧コロナ観測所)の観測ドームが立つ摩利支天岳(2,872m)と雲のかかっている山は乗鞍岳。



 体が吹き飛ばされそうな強風と寒さ !
 実際、帽子が飛ばされてしまった。


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 富士見岳から下ると風がぐんと弱まって、登山道沿いにはトウヤクリンドウなどの高山植物が所々に花を咲かせているのを見てホッと笑顔に。

 右に別れる摩利支天岳への分岐点を過ぎて、左下の肩ノ小屋口バス停からの道と大雪渓を正面に、更にその上の乗鞍岳を眺めながらゆるゆると肩ノ口小屋へ下る。







 ここで朝食。凍えた手足にヒーターの温風が気持ち良い。

 休憩して体調と気持ちを整える。

 ここからいよいよ山頂剣ケ峰までの本格的な登山が始まる。







 雲に隠れている山頂目指していざ、アデランテ !

 ともかく焦らずマイペース。
 先を急ぐ登山者にはルートの端に寄って道を譲る。その間にこちらは休憩、しながらそこに立っている世界を満喫する。
 登頂までの全ルート、全眺望、全一歩一歩を楽しみ味わい尽くしたいから山に登る。
 登山口から山頂まで、場所の移動だけではない、山を楽しむ、楽しむことを楽しむ。




中央に2つの白い観測ドームを持つ乗鞍観測所(旧コロナ観測所)が立つ摩利支天岳。その右手遠方に見える峰々は槍ケ岳から続く穂高岳、前穂高岳。その下に、摩利支天岳をまいて肩ノ小屋まで下ってきたルート。左に続く赤い屋根の建物群は宇宙線研究所観測所(2,770m)。



 振り向けば、ああもうこんなに登ったんだと広がる眺めに感激の続き。




摩利支天岳と槍ケ岳。







 足元だけを見ながら黙々と登って来て、相当頂上が近くなっただろうと上を見上げたら、今までよりも険しい風景が待っていた。

 あそこまで、行くんだな !? うんッ ! アデランテ ! !


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 右手に重くそびえる朝日岳(2,975m)に続く砂礫のスロープに目を凝らすと、ぽつんと駒草の濃いピンクの花と白緑の葉があった。頑張っているなぁ、と声を掛けた。

 こっちが励まされて、また次の一歩を踏み出す。







 山の天気は変わりやすい。

 振り返ると、さっきまでくっきりと見えていた槍ケ岳を、西側から出てきた雲が見る間に広がってその姿を隠してしまった。その後はもう見ることが出来なくなった。

 朝日岳中腹を回り込んで、小さな丘のような蠶玉岳(蚕玉岳 こだまだけ 2,979m)に登る。丘の裾を迂回するルートもあるが、小さいながらもここも乗鞍岳山頂部のカルデラを構成している峰の一つ。登った。

 山頂には木の標柱が立っていて、なぜか「蚕玉岳 二九八〇米」と彫り込んである? そして、少し離れた岩の上に「蠶玉神社」の石柱が横たえてある。







 蠶玉岳から少し下って剣ケ峰へ登るルートは馬の背になっている。
 ここで仰ぎ見る乗鞍岳山頂は、右奥に大日岳(3,014m)を従えて見事に堂々と風格がある。

 ここから、丁度ガスが消えた右手(西側)を見ると、下に鮮やかなコバルトブルーのカルデラ湖・権現沼が現れて、歓声をあげた。







 湖面と呼応するように、空は秋晴れブルー。







 剣ケ峰直下の山頂小屋に立ち寄って高山植物の本などのオリジナルグッズをチェックしながら一息入れて、最後の岩場登りへアデランテ ! !


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 南向きのルートを登りきって視界が開けると左前方に亀の背中のようにゆったりと弧を描いた高天ケ原(2,829m)が現われた。







 そこから南側に一気に視界が開けたが、残念ながら雲に遮られて富士山も御岳山も望めなかった。







 それでも剣ケ峰から南西に連なる大日岳(3,014m)、屏風岳(2.968m)、薬師岳(2,950m)の外輪山をはっきりと見ることができた。







 山頂の登りきった長野県側に東向きの朝日権現社(乗鞍大権現)の小さな社があって、先ずは健康で登頂できたことに感謝してお参り。

 裏側に回り込んでびっくりした。







 今お参りした社と背中合わせで、岐阜県側に西向きの少し大きな社、乗鞍神社(鞍ケ嶺神社)があった !
 神職も駐在していて、お祓いやご祈祷の奉仕をしている。そうか、下から見えた建物と鳥居はこの神社のものだったのか。

 乗鞍本宮の額を掲げたこちらにも朝日権現社と同じ気持ちで参拝した。







 この神社の前に三角点と「剣ケ峰 三〇二六米」の標柱が立っていて、登山者が列を作って記念写真を撮っている。

 僕もその一人に・・・・、その時にわかに背景がガスったぁ。

 さっきまで大日岳がくっきりと見えていたのに、それはないだろう、とぶつぶつ。賽銭が少なかったかなぁ。


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 登山道の両側にハイマツがびっしりと生えていて松ぼっくりがいっぱいばらばらになって落ちているところがある。 ん?
 ひょつとして、ホシガラスの仕業かな、と思って見回すと、向かいのハイマツの枝から出たり入っている一羽を発見した。

 胸前の白い点々模様が中々モダンなホシガラス。

 この所、山岳ドキュメント番組を見ていると時々ハイマツの実をついばむホシガラスが話題になって登場している。この実が、冬の保存食として岩の間に埋め込んだりする、ホシガラスの大好物らしい。







 肩ノ小屋まで降りてきて一安心。
 腰を下ろして一休み。







 ソフトクリームの柔らかな甘さが口と咽喉を潤してくれる。

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 帰りに通る乗鞍エコーラインのくねくね道を見下ろしながらバス乗り場がある畳平に向かう。

 この乗鞍エコーラインを30年ほど前から、岐阜や金沢、高山でのロケの仕事には自分で運転して自動車で往復していた。越中八尾の風の盆にも勿論車で行った。

 雪解け水が至る所に豪快な滝を作っている初夏も、空が澄み渡る秋も、その度に乗鞍エコーラインを通った。
 その時に見たこのエコーラインの美しさ、ぐんぐんと高度が上がってそれにつれて広がる空の大きさと視界が広がってゆく爽快感。素晴らしい感動だった。
 3000m級の山々を水平目線で眺められる雄大な気分の良さをその頃に知った。

 その後舞台出演が多くなって自動車で乗鞍方面に行く機会がなくなった。それに、2003年からマイカー乗入れ規制が実施されて長野と岐阜を乗鞍岳を越えて行くことができなくなった。

 あの乗鞍越えの感動をもう一度味わいたい、その思いが強くなって今回の乗鞍岳登山になった。







 剣ケ峰を振り仰ぐと、その手前の雪渓から歓声とスキーやスノーボードが雪面を滑り降りる時の音がシュワーッ ! シュワーッ !と響いてくる。











 朝にご来光を拝した富士見岳の裾を回ると、高山植物が次々と咲いている。











 足元を見たり、崖の上を見上げたりしながら、その道がとても短かく感じられた。

 今回はぐんぐんと高度が上がって行くスピード感は違ったが、30年前に感動したこの乗鞍エコーラインの美しさ、広がる空の大きさと視界が広がってゆく爽快感は更に増す素晴らしい感動だった。

 この喜びは来年も味わいたいし毎年味わいたい ! !

 そのためにもトレーニングを続けて頑張る。

                   佐藤 輝 ☆彡 2017.12.6


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