夏だ ! 真夏だ ! !
暑っ ! !
5月の末から30℃を超える気温になって、6月1日の今日はナ、ナント33℃ !
あっちこっちで36℃を超えたところもあったと ! !
このページも「春だ ! 」から途中が抜けて「夏だ ! 」に一足飛び。
過去を振り返りつつ、季節に追いつくぞ !
今年のベランダは椿に続いて黄エビネも好調。こんな立派な色鮮やかな花を咲かせて、今は種を付けている。
思いっきりイメージチェンジ !
先日、次の公演の宣材用にポートレートを撮った。
前髪を上げてヘアスタイルを変え、自分では相当にイメージチェンジした積もりなのだが?
どんな公演なのか、どんな役なのか、近日中のご案内を楽しみにお待ちください。
そういえば、女優陣は今日から踊りの稽古に入る予定になっている。
サンチョの好きなスペイン菓子
僕が大好きなスペインのお菓子、マサパンとアーモンドのポルボロンをマドリード在住の山田進さんが送って下さったのが山形から帰って来た3月。
山田さんは日本人としてトップレベルと評される堪能なスペイン語を活かした仕事をしており、1996年12月にペルーの首都リマで起きた在ペルー日本大使公邸人質事件では同時通訳の大役を果たされたことで知られている。
山田さんとのご縁は不思議なスタートで、仕事をご一緒にすることができなかったことから始まった。
それは民放テレビ局の企画で、2005年6月の
『ラ・マンチャの男』帝劇公演後に、物語の舞台となっているスペイン、ラ・マンチャ地方をサンチョ役の僕がドン・キホーテ役の松本幸四郎さんを案内して旅をするというものだった。準備は具体的に進んで、現地でのコーディネーターと通訳は山田さんが担当すると知らされた。
それまでお会いしたことがなかった山田さんだったが、下調べの段階でそれまでラ・マンチャ地方を6回訪ねている僕のことを現地の人たちから聞き「皆がサンチョの佐藤さんが来てくれるのを心待ちしています」と連絡をくださった。
ところがロケに出発する間近になって、航空券が取れないなどの不可解な理由をつけられて僕の参加はキャンセルされた。
それ以来、山田さんは僕のことを気にかけてくださって、何かにつけて連絡をくれたり「トレドに行ったらサンチョさんの好きなマサパンが目に付いて」などのメッセージと共にマサパンやサンチョの人形など、嬉しい品々を送ってくださった。
2008年4月の『ラ・マンチャの男』帝劇公演を前にして1月に7回目のスペイン訪問をした時、マドリードのホテルに着くと山田さん夫妻が待っていてくださった。
マドリードのホテルで山田進さん夫妻と
初めてなのに、もう何度もお会いしているお二人のような懐かしい感じがして不思議な出会いだった。
そして、残念なことにそれ以来一度もお会いできないでいる。
届いたマサパンとアーモンドのポルボロンは、その山田さん夫妻が日本に一時帰国した機会に、わざわざスペインとラ・マンチャの味を送り届けてくれたのだった。
お二人のお気遣いには本当に頭がさがる。
2005年以来、僕の心のスペインに関する部分を強く支えてくださったお二人にどんなに感謝しても感謝しきれない。
感謝 ! !
山形・庄内平野の北に聳える名峰鳥海山2236m。
出羽富士とも呼ばれる優美で壮大な姿を眺めて僕は育った。
今年の夏に32年振りの登頂を目指している。
5月は平野一面の水田に水が張られ田植えの準備が始まる。
その農作業を始める時期を教えてくれるのが鳥海山中腹に現われる「種まき爺さん」の姿。
この日も、左(西側)に顔を向けて前かがみになって種をまく爺さんの姿が見えた五月晴れ。
高曇り 鳥海 五月田にとけて 輝
庄内平野のど真ん中に位置している故郷・庄内町。
JR羽越本線と陸羽西線が接続している余目(あまるめ)駅前に新産業創造館「クラッセ」が先月オープンした。6次産業化(?)、地域産業活性化の拠点として町民が期待している施設。
どんな施設かを早く知りたくてオープン前に訪ねた。
「アル・ケッチャーノ」の奥田シェフが監修する食のアンテナレストラン「やくけっちゃーの」、地元産の食品などを取揃えた売店「あっでば」などが入っていて、我が故郷にしては洒落て開放された雰囲気の施設。
この建物は元は庄内米を保管した米倉庫。僕の子供の頃は秋になると収穫したばかりの米俵を積んだ馬車が荷卸しの順番を待って列をなして賑わった。馬車から降ろして米に等級を付け、倉庫に担いで運び込む時に等級を確認しながら俵を背負わせる「こ〜れは○等だ どっこいしょ〜ど」の掛け声が思い出される。あの頃の元気な賑わいを町の中心部に取り戻す拠点になってくれることを期待した。
「やくけっちゃーの」では何を焼いて食べさせてくれるのだろう。期待に舌が鳴る!
次の帰省が楽しみで、胸ワクワク ! !
庄内地方に行ったら必ず立ち寄って見るのが酒田港にある「みなと市場」と「海鮮市場」。
日本海からあがったばかりの旬の魚介類はもちろん、地酒から季節の新鮮な野菜果物まで、嬉しくなるほど豊富にそろっている。海鮮丼などを食べられる店もあって、食事時などは1時間待ちの行列ができるほどの人気ぶり。僕は時間をずらして、それでも15分ほどは待ったが前回と同じ店でマグロの「みんな丼」を食べて大満足。
ここはゼッタイお薦めだよ! セニョール! セニョリータ! と言いたくなる気分。
5月4日は39年前に羽黒山山頂の出羽三山神社で結婚式を挙げた記念日。
ここ数年はこの時期に帰省できる時間ができたおかげで、この日に記念の参拝をしている。
今年は折良く550年(庚午)に羽黒神が示現したと伝えられる羽黒山午歳御縁年とあって、明治時代の神仏分離の過程の中で開山堂の蜂子神社に秘蔵されてきた僧形の開祖蜂子皇子像が期間限定で公開されていた。
麓の手向(とうげ)地区にある随神門を入って、須賀の滝を見上げながら祓川にかかる神橋を渡り、平将門が寄進したと伝えられる古色蒼然とした国宝羽黒山五重塔を拝し、特別天然記念物に指定されている太い杉並木の間の長い石段を登って山頂の鳥居をくぐれば本殿手前左側に蜂子神社(羽黒山開山堂)が立っている。
後方右のお堂が蜂子神社。その左は厳島神社。
山頂手前にある齋館は階段の多い渡り廊下で本殿と繋がっていて、結婚式の控室や庄内平野を一望できる広い披露宴会場も備わっている。僕もここで披露宴をした。また、大晦日に行われる松例祭の主役二人の松聖が冬期50日間籠って修業をする施設でもあり、一般客が宿泊や精進料理の食事もできる。(予約が必要です。問合せ電話
0235-62-2357 )
齋館でも折良く御縁年特別御膳のメニューがあると知って早速予約をした。
メニューには入っていない、39年前の披露宴の時に余りの美味しさに隣接する席の分も含めて3個も食べた人がいたというゴマ豆腐を追加注文した。
これが特別メニューの「羽黒山八景御膳」。白い皿が追加注文したゴマ豆腐。
伝統の精進料理をゆっくり味わうと大地の滋味が舌の上にじわっとひろがる。どれもあっさりした味付けだがおいしい。そして満腹。
食事中に、メニューを考えた齋館の伊藤新吉さんがこの料理の食材のいわれや夫々にまつわる祓川の神橋から始まる羽黒山の八景をわかりやすく説明してくれて、味わうことを楽しみながら頭の中では山内の名所巡りを楽しんだ。
庄内地方の生活文化には羽黒修験の考え方が深く影響しているが「月山筍と椎茸と油揚げの煮物」の説明を聞いて「庄内人の大好物筍汁は庄内地方のどこでご馳走になっても筍のほかに三角に切った生揚げと椎茸が必ず入っているが、このレシピは羽黒山の精進料理のいわれが元になっているのに違いない」と推察した。
佳い、5月4日になった。
山形、んめもの三昧
もう既に美味いもののことは書いたのに、それでも書きたい ! 山形のんめもの。
酒田港「みなと市場」で食べたマグロの「みんな丼」はこれだぜ! セニョール! セニョリータ! このレンズの先には、テレビのニュースで行列が出来る大評判の店の店長と紹介された、店長が。
天童市民温泉「ゆぴあ」の湯上がりにはラ・フランスのソフトクリームがとろける気分の絶品。「花の山形 モミジの天童」と歌われる天童市はラ・フランスの大産地。一時ラ・フランスがイチゴに替わってしまったときは泣いたけど復活
! 皇太子殿下の大好きなラ・フランスのアイスクリームも売店に。
山形ではそばも美味い ! 山形市旅篭町にある老舗そば屋「羽前屋」の生そばと麦きりの合い盛り。歯触りのど越しの違いも楽しめる盛り。季節の花も嬉しい。
これはどこかの店にはあらず。山形市で地元産の新鮮食材を豊富に置いてあるスーパー「元気市場たかはし」を見つけて以来、食卓が豊かになったわが家。おかひじき、うこぎなど取れたて山菜はさっと茹でただけでしゃきしゃきの初夏の味わい。なぜか僕の好きなヒラメのえんがわがいつも買えるのが嬉しい。農協婦人部が漬けた一口ナスの芥子漬けも辛〜〜いけど大好き。でもこれだけは美味い不味いの差が大きいから選ぶときは要注意。某メーカーのものはナスはふにゃふにゃで味に深みやうま味がなく、ペッと吐き出したくなる。貰ってもゼッタイ食わない!
山形市内で一番身近な山は千歳山471.1m。
県庁の南側にあって盃を伏せたような三角形の、全山松に覆われた姿で存在感を示している。古くから「阿古耶姫」伝説で知られ、民謡の紅花摘み唄に「千歳山からナ〜 紅花(こうか)の種〜 まいたよ〜 それで山形 花だ〜ら〜け〜」と歌われている。
帰省の行き帰りに近くを通って眺めているのに一度も登ったことがないなあと思い立ってハイキング。県庁寄りの登り口には醤油の香ばしい香りを漂わせている玉こんにゃくの店があって、たまらず1本をぱくり。辛子の利きが良すぎてツーンッ!
登りはじめてしばらくは千歳稲荷神社の参道で、朱塗りの鳥居が長く続いている。
その先が意外や意外、ちゃんとした登山道で、8月の鳥海登山に備えたトレーニングの積もりでトレッキングシューズを履いてストックを持ってきたのは正解だった。
路傍のスミレとツツジが息切れを慰めてくれ、時々見える市街地や馬見ケ崎川が汗を押さえてくれた。
日常生活の側にありながら手軽に登山気分が味わえる、佳い山だった。
腹が減って、何を食べようかと帰りは早足になって千歳山公園に降りた。
空腹を満たした満足顔で出てきたそば屋は、ここも山形の老舗「三津屋」。手打ちの細麺がつるりっとのどを通る時のくわい感 ! 山形にそば屋は多いけど、夫々が伝統と個性を持っているからその違いを楽しめる。たまに山形そばの名声の上にあぐらをかいているような(高いだけで美味くない)店もあるので見極めが大事。
普通のもりそば用のつゆと「肉そば」用のつゆ、この二種類のつゆが付いた「一庵そば」。てんぷらも付いている。天童市にあるそば屋「一庵」。休日には宮城や福島、新潟から関東地方のナンバーを付けた車などで駐車場がいっぱいになるほどの評判の店。河北町が発祥と言われる山形の「肉そば」は、鶏肉を煮込んでたっぷりの出汁を取り、それを冷やしてこりこりになった鶏肉を細切りにして入れたつゆに太めの手打ちそばをもった冷たいそば。コクのあるつゆが角のあるそばにからんで、丸みと深みのある味わいと共に舌触り噛みごたえのど越し感がバツグンの美味しさを味わえる。
これらのんめものを夏の帰省でも美味しく満喫できるように、その前の公演を心残りのない充実した作品に仕上げたい。
お客さんの心に残るレベルの高い舞台を創ろうと台本を読み込んでいる。
新しい役柄への挑戦が始まっている。
さ〜て、どんな役を、どんな演技で表現するか? 楽しみにお待ちください ! !
輝 ☆彡 2014.6.3
春だ ! ! part2
前回書いた日に東京は開花宣言が出て31日には満開に。
ハクモクレンやコブシの白い花は見る間に桜並木に呑み込まれるようにすっかり桜色に溶け込んで、並木は午後の逆光に映えてピンクの川の流れのように輝いた。
桜のトンネルを子ども連れの家族がそぞろ歩く様子は、春の日ののどかさを一層引き立てているのだった。
昼の花見、思い立って夜桜も。
ベランダから眺めては「白い貴婦人」と呼んでいる、並木からぽつんと離れて立つ白い桜の大木の下に初めて立って見上げた。まさに「白い貴婦人」。白い花を密につけた枝を大きく広げて、僕を包み込んでくれた。
春の嵐に翻弄されながらも、舘椿に続いてベランダのバーバラクラークも次々に花を開いている。直径15センチにもなる大輪の花は遠くからでもくっきりと見える。
花は花びらが散り散りに散らず花の形そのままで地面に落ちるので、それを水を張った皿に浮かべて楽しんでいる。豪勢な鮮紅の大輪の花にはキリッと冷えた吟醸酒がベストマッチング
! !
心に残る沢山の舞台を創って観客も出演者をも感動させてくださった舞台美術家の朝倉摂さんが先月27日に亡くなられた。
通夜と告別式に参列しているあいだ遺影を見ながら、朝倉さんに仕事でお世話になった日々を思い出していた。
その時はそんなに思わずにいたのに振り返ってみると、あの人との出会いがあったからこそ今の自分の人生があるんだと思える大切な人がいる。
摂さんもその大切な恩人のお一人。
劇団の先輩で浦山桐郎監督の映画『わたしが・棄てた・女』で主演した女優の小林トシエさんが渋谷ジァン・ジァンに出演していた時、その公演に参加していた朝倉摂さんに僕を紹介してくれた。
そして朝倉摂さんの紹介で1974年(昭和49年)12月、朝倉さんと演出家の福田善之さん、照明家の立木定彦さんが組織していた「立動舎」の公演『艷歌劇
夢の渡り鳥』に出演させていただいた。
ご存知〈立動舎〉恒例年忘れ興行第三弾 ! ! と銘打っている通り、沢竜二さんを中心に据えて長山藍子さん、藤田弓子さん、吉行和子さんを配したバラエティーとエネルギーにあふれた舞台はすでに新宿紀伊国屋ホールの暮の名物公演になっていた。
『天保水滸伝』♪わたしゃ九十九里荒浜そだち と言うていわしの子ではない ♪されば天保15年 飯岡 笹川両身内 名代なりける大出入り 伝え伝えし水滸伝〜
♪せんせ せ〜んせい いないので〜すか ♪酒屋の丁稚 チョロ松〜よ
先生と呼んでいる素浪人平手造酒(みき)に酒を届けにきたチョロ松(佐藤輝)は、酒に溺れている平手の体を心配する妙心尼(藤田弓子さん)に徳利を取り上げられてしまう。奧には舞台を取材しているスタッフ役(林ゆたかさん)。
福田善之さんの台本・演出による現実の人間関係と劇中劇の人間関係がオーバーラップして時代と虚実が目まぐるしく入れ替わる面白さをザ・ワンダリング・バーズが生演奏する山木幸三郎さんの音楽がつないで盛り上げて客席は大喜び。伝説に残る公演だった。
僕にとっても、演技の様々な表現法や発想を学びそれを自分の演技に生かして実践させてもらえる俳優として本当に貴重な時間だった。
僕は翌1975年(昭和50年)も出演させていただいた。
レギュラー出演者となった内山森彦さん、林昭夫さん、松熊信義さん、菊地剣友会の岡正利さん、津川晋一さんに加えて尾藤イサオさん、結城孫三郎さんと結城人形座の皆さん、紀伊国屋書店の社長田辺茂一さんと更に多彩になった上に、木ノ実ナナさんと峰岸徹さんが日替りゲストとして出演された。いやはや豪華多彩
! !
『石松閻魔堂』中央・尾藤イサオさん、右・吉行和子さん、左・佐藤輝。
舞台袖の狭い紀伊国屋ホールで構成と出演者を生かす舞台美術のお仕事は毎回苦労されたことと思う。それでも、朝倉摂さんは仕込みの疲れを少しも見せることなく客席と舞台を行き来しながら美術スタッフに次々と指示を出し、舞台稽古直前までご自分で刷毛を持って色付けしておられた。
1975年12月28日『艷歌劇 続夢の渡り鳥』千秋楽。
前列中央が朝倉摂さん、その後ろが吉行和子さん、その右に沢竜二さん、その右手前が演出の福田善之さん、その右が長山藍子さん。朝倉さんの左が木ノ実ナナさん。
二列目左端が佐藤輝、その右隣が先代結城孫三郎さん。
朝倉さんの紹介で立動舎公演に参加できたお陰で、翌年9月福田善之作・演出の明治座公演『女ねずみ小僧』に弟ねずみ・三太役で出させていただいた。この公演が僕にとって、いわゆる「商業演劇」と呼ばれた大劇場への初出演。
女ねずみの小川真由美さん、男ねずみの緒形拳さんと僕の弟ねずみ・三太が旅の一座がからんだ陰謀をあばくストーリーで、この公演でも僕は多くの初めての貴重な体験をさせてもらった。
女ねずみの小川真由美さんと弟ねずみ・三太(佐藤輝昭)。
このねずみの絵も確か摂さんがご自分で手書きされたもの。
秋元松代作蜷川幸雄演出による江戸三部作『近松心中物語』『元禄港歌』『南北恋物語』も朝倉摂さんの舞台美術。
1982年11月の『南北恋物語』帝国劇場、83年5月大阪道頓堀朝日座公演以降の『近松心中物語』に出演した。
朝倉摂さんの舞台美術は素晴らしく、いつも舞台に立つと浮世絵の中の登場人物になったような気持ちになったものだった。
『近松心中物語』幕開きの郭の場面、上手八文字屋二階の太鼓持・勘八。郭の屋根に咲く彼岸花が象徴的な朝倉摂美術だった。
素晴らしい舞台美術によって多くの作品を創ってこられた朝倉摂さん。
舞台稽古を見せていただくと、摂ちゃんはいつも溌剌と動き回り、挨拶には丁寧に応えてくださった。その時の活き活きした目の輝きが僕を励ましてくれた。
草笛光子さんが施してくれたお化粧、摂ちゃんらしくてとてもステキでした。
絵に描かれた六匹の猫ちゃんたちと安らかにお過ごしください。ありがとうございました ! !
22.3℃を記録した8日、前日に急に思い立って今年最後になるかと花見にでかけた。
そしてこの笑顔 !
後ろには「お堀」。そして桜。
そう ! ! ! 今年初めて一般公開された皇居・乾通りのお花見。
この乾通りを、僕はなんと55年ぶりに歩いて「ああ、やっぱりここを歩いたのだ ! ! 」と感動とともに確信した。
僕が中学3年になる3月、余目町立余目中学校の新3年生は東京、鎌倉に修学旅行に来た。国会議事堂、上野動物園、鶴岡八幡宮、鎌倉大仏、江ノ島などをまわって豊島園ホテルに泊まった。鎌倉に向かうバスから見えた富士山の大きさに感嘆し豊島園のウォーターシュートに歓声を上げた。
その日程の中に、皇居訪問があった。クラス担任だった吉泉正雄先生が頼み込んで、特別に許可されたものだったと後で聞いた。
しかし当時は皇居そのものの情報が少なかったこともあったのか資料を読んだり予習した覚えもなく、ただ案内されるままに長い道をぞろぞろと先頭の先生に付き従って歩いた記憶しかなかった。
後年東京に住んで、一般公開されている東御苑の観梅を楽しんだりしながら、修学旅行で歩いた皇居の道はどこだったのかと一生懸命思い出し捜してみたが見つからなかった。
わからない訳だった。その道は一般公開されていない区域だった。だから特別許可を得て入場できたのだった。
今年初めて公開されて大入り満員となった乾通りのニュース映像を見て「ああ ! ! ここじゃないか ! ? 」 宮内庁があって道灌堀があって・・・、中学3年以来の疑問が解けるんじゃないか
?
ぽかぽか陽気の8日、入口の坂下門に一番近い大手町で地下鉄を降り、地上に出たら、人人人人・・・。誘導されて内堀通りを祝田橋手前で桜田門方向に右折、また右折して二重橋をゆったり眺めながら坂下門へ。ほぼ1時間の皇居前広場一周ツアーだった。
そして宮内庁。この特異な形の建物に見覚えがある。55年前と同じなのだろうか ?
ウン ! その先左側の黒塗りの長屋風和風の建物も記憶にある ! !
その〜ゥ、先 ! ! ああ、道灌堀だ ! ! ここだ、間違いない ! ! 記憶では堀に沿って延々と歩いたような気がするが、道灌堀と右側の長い乾堀の印象をごちゃまぜにしてしまったか
?
この通りそのものがもっともっと長かったような記憶なのに、この大勢の人たちと後になり先になり、まだまだ咲き誇っている桜を次々と見上げながら時には押し合いへし合いして歩いてきたからか、出口の乾門は意外に近かった。
左側の土手には今を盛りに黄色の花を密につけた山吹の株が幾つも。なるほど、太田道灌の道灌堀だもの。実の一つだになきぞ・・・の雨中の故事を脳裏に描いた。
乾門手前には大きないろはもみじの大木が若葉を気持ち良さそうに伸ばしている。
秋の紅葉の季節にも来たいと思った。
55年ぶりの乾通り。わが少年時代を振り返る、素晴らしい時を作ってくれた。
輝 ☆彡 2014.4.11