夏・尾瀬
夏がくれば・・・ 思い出すのは
誰もが憧れる、あの、水芭蕉の尾瀬。
尾瀬沼と尾瀬ヶ原。
そして、東の燧ヶ岳と西の至仏山。
尾瀬ヶ原の水芭蕉。
5月末から天気予報の細かなチェックを続けて、6月5日〜6日なら尾瀬が晴天になると確信 ! !
福島県の南端、桧枝岐村御池でバスに乗り換えて終点沼山峠休憩所まで20分足らず。
ここからの峠越えは、聞きしに勝る残雪の多さにびっくり。
頼りの木道は雪の下。
まるで雪山登山だ !
上りも下りも、滑る滑る。
所々に見える木道にホッとする。
下り坂途中の展望台から尾瀬沼が遠くにチラッと見えて、バンザーイ !
大江湿原の入口で、真っ白な水芭蕉の花の群れが出迎えてくれた。
水芭蕉輝く尾瀬の世界がはじまる。
大江湿原。
湿原の先に尾瀬沼が見えてきた。
湿原のいたる所に水芭蕉が咲いている。
尾瀬と言ったら平野長蔵さん。先ずは感謝のご挨拶。
平野長蔵さんがいなかったら、我々がこの素晴らしい大自然の美しさに感動することはできなかった。
尾瀬の自然保護を訴えて運動し、その美しさを守り伝えて広めた平野家代々のお墓にお参り。
長蔵小屋と三平下との間から尾瀬沼越しに見る燧ヶ岳。
道沿いの所々にはやっと咲いたばかりのチシマザクラ。1センチにも満たない可憐なさくら。
沼尻。尾瀬沼左が北岸、右が南岸。
ここでおにぎりの昼飯、うまい !
本当は三平下から尾瀬沼南岸をぐる〜ッと回って、尾瀬沼越しの燧ヶ岳のドンとした姿をゆっくりと眺めながら沼尻へ来たかったのだが、南岸ルートは特に雪が多く滑落や踏み抜きの危険があるとの情報で、心残りながら北岸ルートを来たのだった。
その北岸ルートでも、沼尻平の手前にはこんなに雪が残っていた。
沼尻を発って白砂湿原までは平坦で快調だったが、白砂峠の上りに掛かると道は一番の雪山登山に。
まるで「ホビットの冒険」や「指輪物語」に出てくる森が雪に覆われているような山道を、見えない木道ルートを探しながら雪の重さで倒れた木々を跨いだりくぐり抜けたりしながら進む。
雪解けした登山道では泥水が溜まって道幅いっぱいぬかるんでいたり流れ落ちたりしている。
心を慰めてくれるのは、ルート沿いに流れる渓流の水音と大きな声で存在を主張しているうぐいすの鳴き声。
雪道が終わると木道が単調に感じられる不思議。
空を覆う芽吹いたブナ林を見上げながらも木道の継ぎ目に躓かないないようにして進むと、急に世界が明るく開けて尾瀬ヶ原「見晴」の山小屋集落が目に入り、続いて正面に至仏山が。
右手前が宿泊予定の尾瀬ヶ原第二長蔵小屋。奥正面に至仏山。
尾瀬ヶ原東端・見晴の下田代十字路から尾瀬ヶ原西端にそびえる至仏山を尾瀬ヶ原越しに望む。
夕方の尾瀬ヶ原を西に向かって少し散歩。振り向けば、見晴の後ろに西日を浴びた燧ヶ岳。
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2日目の朝。至仏山を背景に、第二長蔵小屋の前で。
第二長蔵小屋に泊って2日目の朝は天気も体調も絶好調。
朝の最低気温が0℃だったと聞いた昨夜も冷えて、夕食を済ませて部屋に入ると、寒くて体がガタガタと震えだした。
幸いにこの山小屋の寝具は普通の布団なので、それに毛布を上下2枚重ねて、首にはタオル、口にはマスクをし、早々に床に入った。
おかげでその後は温かく、ぐっすり眠れて睡眠8時間。
それでダブルVサインに。
一つは今朝の天気も体調も絶好調。
もう一つは、実は、27年ぶり2度目の尾瀬と2度目の第二長蔵小屋泊り。
1990年5月30日〜31日に1泊した第二長蔵小屋、思い出の1枚。
今年の尾瀬と27年前、1990年5月末の尾瀬との大きな違いは残雪の多さ。
1990年の時は、今年より6日も早かった5月30日でさえ、山道に残雪を見ることはなかったし、湿地の草も花々も木々の緑も多かった。
また、今年は断念した尾瀬沼南岸ルートを、何の不安も持たずに歩くことができた。
今年の残雪の多さにびっくりしたと山小屋の管理人に話すと、年によって雪の消え方には結構大きな差があって今年は特に多く残っているとの説明だった。
事前情報を集めていて良かったと思いながらも、それに応じた対策と心構えをしっかりしなければと、あらためて次回に向けての自戒。
山小屋を出て尾瀬ヶ原を昨日散歩したあたりまで行くと、木道のすぐそばで何かが動いている。
しゃがんで見ると、まったく人影を恐れることもなく水芭蕉の間で餌をついばんでいるのは、すずめほどの大きさで頬の朱色が特徴のホオアカ。
時々眼が合うが、人も自然の一部と感じているのか、我関せずのホオアカ。
その目が、朝日にキラキラと輝いている。
心豊かな気持ちになる。
広々とした尾瀬ヶ原の木道に立って、この雄大な広がりをゆっくりゆっくり360度眺め回す。
空気が澄んでいるから、湿原は湿原の色、萌えるブナ林はブナ林の色、空の青さはどこまでも青く、水芭蕉は白く輝いて水面に影を映している。
どの色も鮮やかで、形あるものはくっきりとその形を見せている。
自分の目が良くなったかと思えるほど、自然の美しさをシャープに見て感じられる。
言葉は何も要らない。
この大自然に抱かれて、身も心も溶け込んで自然に同化しているような、安らかな大らかな気持ちになった。
素晴らしい大自然 ! !
水芭蕉の大群生池・下ノ大堀。
100キロもの荷を担いで山小屋に食材などを運ぶ尾瀬ヶ原名物「ボッカ」さんが行く。
尾瀬ヶ原の流水が湿原の伏流水となる入口付近から竜宮小屋方向を見る。
尾瀬を歩く時不思議に思ったのは、どのようにしてこの太く重い木道の資材をその場所に運んで敷くのだろうという疑問だった。
その答えが朝から何度も尾瀬ヶ原と鳩待峠方面とを往復していたヘリコプターだった。
竜宮十字路からヨッピ吊橋に向かっていると、ヘリコプターがどんどん近くに見えて来て、下に吊るして運んでいる荷物も見えてきた。
吊橋から牛首分岐に続く木道沿いに荷物を下ろしている作業が見えた。
それでも疑問は解消しない。重機は入れられないだろうに、誰がどうやって木道を運んで敷くのだろう?
大変な作業に違いない。ありがとう !
尾瀬ヶ原をのんびり回って、昼過ぎに第二長蔵小屋へもどっておにぎりの昼食。
ここでものんびりして、時計を見て慌てた。
見晴から沼山峠休憩所バス停までのコースタイムは、雪のない夏シーズンでも約4時間。最終バス時刻は、5時10分 ! 今は、1時5分
! !
あの難関の雪道を、雪のないシーズン並の4時間5分で着かなければ最終バスに乗り遅れる! ! !
水を飲む時間も惜しんで叱咤激励、自己を奮い立たせて、兎も角も黙々と、滑るようにして走った。
沼山峠の下り道は「発車15分前 ! !」から、自分に言い聞かせるように号令を掛けながら駆け降りた。
バス停のある広場が木の間越しに見えた時には、もう腰から下の力が抜けたような気がした。
最終バス発車5分前にバス停に到着 ! ! !
ああァ、無事に着いた ! !
今は環境保護のためにマイカー規制されたが、27年前はこの広場まで自分で運転して来ることができたから時間を気にすることはなかった。規制があるからこそ守られている自然の美しさがある。
これは今後の体力の自信につながった。
この夏にはどこの山に登ろうか? 秋にはどこに?
尾瀬にも、また行きたい、別の季節や別ルートも。
あの美しさ、素晴らしさは、そこに実際に行って見た者にしか分からない。だから、どんなに苦労があったとしても、僕はそこにきっと行く。
夢は広がる・・・!
☆ ☆ ☆
1年ぶりとまではならないけれど、七夕に久しぶりのページ更新。
14階の非常階段から夜空を仰ぐと、頭上には織り姫・彦星の天の川にはほど遠く、目を凝らしてやっと見えた小さな
☆三つ。
ベランダの竹林に「みんなが健康でありますように!」「また晴天の尾瀬を楽しめますように!」と願いを書いた短冊を吊るした。
濁流の氾濫と土砂崩れが残した大木・丸太の氾濫の映像に心を痛める九州の連続集中豪雨。
被災地の皆様に心からお見舞い申し上げます。
佐藤 輝 ☆彡 2017.7.7
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■佐藤 輝 出演情報
2017.5.16(火)
20:00〜20:54
BS日テレスター感動秘話
我が心の師
人生を変えた伝説の人
女優・山岡久乃×藤田朋子
“渡鬼での母娘の絆”と恩師の壮絶闘病秘話
!
山岡久乃さんとの思い出と形見にいただいた楽屋のれんについて語る。
オフィス天童・天童真理子代表も出演。
山岡久乃さんの舞台に対する熱い思いと闘病の様子を語ります。
出羽富士・駿河富士
2017年3月10日。
今年も3月10日。
僕の人生で、72回目の3月10日。
10万人の市民が焼夷弾の火の中で死んだ東京大空襲からも72回目の3月10日。
民主主義の理想を夢に持った国民のエネルギーによって、敗戦後の誰もが飢えていた時代からの急激な復興を実現し、高度経済成長のバブル景気に浮かれ、最先端科学と素晴らしい技術進歩と安全神話の中で目覚めさせられた、3月11日。6回目の3月11日が来る。
冬期にこんなに素晴らしく晴れ上がった姿が見られることは珍しい、故郷山形庄内平野の北にそびえる出羽富士・鳥海山。
兄貴の墓からまっすぐ北の田んぼの先に輝いていた。
先月大阪の“JOHN MINEO MEMORIAL PARTY JOHNの人生を祝して ! ”に参加した。
JOHN MINEO(ジョン・ミネオ)は、ブロードウェイで『CHICAGO』などに出演して活躍し、去年11月に74歳でアメリカで亡くなったダンサー。
大阪への往きは快晴の空に映える雪の富士山に歓声をあげ、帰りは遠州灘から吹き上がってくる強烈な横風にハンドルを取られながら一生懸命車線をキープしての新東名高速道。
往復の運転しながらも、久しぶりに訪ねた鶴橋・吉田(ここの焼肉を食べたら他では食べる気にならない美味しさ! そうだ『その男ゾルバ』飛天公演の時に上月晃さんに連れて行ってもらったのが最初だった!!)で美味い焼肉を食べながらも、JOHN
MINEOとの思い出をたどった。
僕が1993年、ブロードウェイ・ミュージカルと言われる舞台にイギリス提督の役で初めて出演した藤田まことさん主演の『
その男ゾルバ』。
その時にお世話になったのが振付のJOHN MINEOと、出演しながらJOHNのアシスタントをして、その後奥さんになった香ちゃん。
JOHNはそのころブロードウェイの『CHICAGO』に出演していて、プロ意識に徹した現役バリバリのダンサーだった。
ブロードウェイシステムの舞台作りと稽古に不慣れだった僕をJOHNは細かに厳しく指導してくれて、その後に続けて出演したたくさんのミュージカル作品につながる心構えを教えてくれた。
98年の『34丁目の奇跡』グループ・マーチン判事の役作りにニューヨーク郡裁判所やセントラルパーク、ロングアイランドにある富豪の別荘を訪ね、52丁目のウィークリーマンションに泊まってブロードウェイミュージカルをハシゴして観歩いた時は、折よくJOHNがSHUBERT
THEATREの『CHICAGO』に出演中で公演舞台を観ることができた。楽屋にも招き入れてくれて、出演者の皆さんを紹介してくれた。
『CHICAGO』の舞台、JOHNの演技はそのNY滞在中に観た『Smokey Joe's cafe』『CABARET』『CATS』『FOREVER
TANGO 』『TITANIC』『THE SOUND OF MUSIC』『The Sunshine Boys』『THE LIFE』『Promises
Promises』『RAGTIME』『Les Miserables』などの数々の舞台と共に鮮明に脳裏によみがえる。
その後、外国ミュージカル出演は『
マイ・フェア・レディ』『
屋根の上のヴァイオリン弾き』『
ラ・マンチャの男』『シンデレラ』『
エニシング・ゴーズ』『
42ND
STREET』『
IRENE』『34丁目の奇跡』『
OHダディー!』と続いて、僕の芸歴の大きな部分を占めている。
その出発点がJOHN MINEO振付の『その男ゾルバ』だった。
JOHNが稽古の繰返しを告げる「ハ〜イ! ア・タ・マから!!」の声が今も聞こえる。
佐藤 輝 2017.3.10
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またまた最上川、最上川舟唄
!!
11月20日にあった、故郷・山形県庄内町出身者が集う「東京庄内会」に、一昨年は水戸黄門役で出た『忠臣蔵』の稽古で、去年はNHK朗読の稽古と重なって都合がつかずに出席できなかったから、3年ぶりに参加した。
新会員が50名も増えて200名の出席があったことに加えて、山形から駆けつけた原田真樹町長の挨拶の中に、隣接する酒田市の工業生産と港湾経済活動が好調で、庄内地区全体の雇用情勢が好転していることや日本海東北自動車道の具体化の進捗状況が語られたこともあって、実に和気あいあいとした和やかな、楽しい会になった。
去年、欠席した後で、丁寧にたたまれた小さな包みが同封された郵便が届いた。開けてみると、手作りの綺麗な袋に入った、手作りのお守りだった。僕の健康と幸福の願いを込めて、近くの神社で祈祷してもらったものだと添え書きがしてあった。
差出人は「東京庄内会」の相談役「斎藤まり子」さん。
僕が高校を卒業して上京した直後に友達に引っ張られて行ったバーのママ。雑談をしているうちに、聞けば僕と同じ余目町(合併前の町名)の出身、更に聞けば教員をしていた僕の父の教え子だったと言う。その出会いからしてびっくりしたが、父の弟(叔父)たちと一緒に故郷の会「東京余目会」を毎年開いていて、そこには故郷の恩師として父が招待されているのだと言う。
父の上京に合わせて最初に参加した「東京余目会」会場は、池袋東口から映画館の文芸座方向に向かった途中の池袋温泉。懇談時間になって横長の座卓に座って折り詰め弁当を食べていると、会場の貸し切り時間が終わったからとどっと一般客が会員の間間に入り込んで来るような、そんな会場の、そんな時代だった。
その後、東京余目会の皆さんとは、1978年ママさんバレー地元代表として東京体育館の全国大会でブロック優勝を果した「余目ママさん」チームの応援や、88年準優勝の「余目ママ」チームの応援、総会でしばしばご一緒した。当初数十人の集まりだった総会も、回を重ねるごとに大きくなり、百人以上の会に成長した。会場も、浅草ビューホテル、上野池之端東天紅など、洒落たパーティー会場に場所を移した。そして昭和36年に発足した東京余目会自体も故郷余目町と東隣の立川町が合併して「庄内町」になったのを機に「ふるさと立川会」と合併し、「東京庄内会」に発展した。今年はその第8回総会だった。
その間に、会員同士が連絡を取り合って、まとまって僕の舞台公演を観に来てくれるようになり、大いに激励し応援してもらった。その回数は、今となっては数えきれないほどになる。
そうした中心には必ず斎藤まり子さんがいて、帝劇『ラ・マンチャの男』の楽屋にも、下北沢の小劇場の楽屋にも、湯気が立つ手作りのおこわや、煮物、漬物などを、家族を総動員して届けてくれた。舞台の合間に「美味しい! 美味しい!」と喜びながら楽屋中でご馳走になり、その度に出演者とスタッフに喜ばれ感謝された。
今年は、会場に行ったら、いの一番に斎藤さんを見つけて、お守りのお礼を言おうと思い、久しぶりの再会を楽しみにして出かけた。
ところがどこを見回しても、あのふくよかで優しい笑顔の斎藤まり子さんのお顔が見当たらない。役員名簿を見ると、そこには斎藤まり子さんの名前が出ているのに・・・。
五十音順に並んだ参加者名簿を追って行った目は、一瞬あれ? なぜ ? の問いと一緒に「斎藤」の所で釘付けになってしまった。斎藤まり子さんとあるべきところに、その名はなくて、斎藤さんの二人の娘さんのお名前が「まり子さん娘」との説明付きで載っていた。ぼう然として頭の中は真っ白になってしまった。
・・・、斎藤さんの遺影を持って参加していた二人の娘さんの話では、先月、突然亡くなったばかりだと言う
ぼう然が唖然になり、がく然とした。信じられなかった。信じたくなかった!!
斎藤さんはいつも、懇親会が終わってそれぞれが帰る別れ際に、しっかりと握手しながら「輝さん! 来年もきっと来てね! みんな、あなたの歌う最上川舟唄で元気になるんだから、ね!?」と強く念を押した。
ミニコンサートと懇親会に入ってのアトラクション後、突然ステージに呼び上げられて、何か挨拶をと所望された。口の中には食べたばかりのおにぎりのつや姫がまだ残っている。舌でそのご飯粒をを外しながら「つや姫は、歯に挟まっても美味しいご飯です
!」とCM。
このところ、折りがある度に歌っている山形県民の歌「最上川」を2回繰り返して歌った。
最上川は、山形県南部の福島県境に近い西吾妻山麓に源を発して北上し、西の酒田市で日本海に注ぐ、山形県内だけで完結する229kmの大河。山形県の母なる河と呼ばれる。
県中央部にゆったりとした丸みをもって横たわる霊峰・月山の頂上(1,994m)は庄内町にあって、その北側の雪解け水は庄内町の立谷沢川を下って最上川に注ぎ、町内を流れて酒田に下るから庄内町に育った会員にはとても親しまれている川。だから、繰り返しの2回目はみなさんのその最上川への思いがこもった、大きく流れるような歌声の盛り上がりになった。
ここで、僕の耳に、はっきりと斎藤さんの「あなたの歌う最上川舟唄で元気になるんだから、ね!?」の声が聞こえた。でも・・・、さっきのミニコンサートで、日向由子さんがクラッシック風にアレンジした最上川舟唄を歌ってくれたばかり。
完全民謡とは言いながら重ねて歌ったら日向由子さんに失礼になるかななどと、創立1周年となったオフィス天童の紹介をしながら、考えた。
見ると上手前のテーブルに座っている斎藤さんの遺影を持参した娘さんの顔が見えた。その時また、斎藤さんの「あなたの歌う最上川舟唄で元気になるんだから、ね!?」の声が聞こえた。
よしッ! 僕は「ヨーイサノマガーショ! エンーヤコラマーガセー!」最上川舟唄を歌った。
斎藤まり子さんのリクエストに応えて、51年間のすべての感謝を込めて。
会場のみんなが声を合わせて最上川舟唄を歌ってくれた!!
「斎藤まり子さ〜ん ! 聞こえましたかぁ〜!」
斎藤まり子さんも一緒に歌ってくださったと思っている。
佐藤 輝 2016.11.26
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