俳優・佐藤 輝-41

あそびごころの 佐藤 輝の世界 俳優・佐藤 輝 - 41
2017年10月〜12月分

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2017年10月〜12月



高麗屋三代襲名披露祝賀会 

 『ラ・マンチャの男』で僕が演じたサンチョの旦那さま、ドン・キホーテを演じた松本幸四郎さんに9年ぶりに再会した。

 元気で、お祝いの場所でお会いできて、本当に嬉しかった。







 幸四郎さんが二代目松本白鸚に、息子の染五郎さんが十代目松本幸四郎に、孫の金太郎さんが八代目市川染五郎に襲名が決っての披露祝賀会。

 歌舞伎界初となった親子孫三代の同時襲名は、37年前の同じ高麗屋三代同時襲名以来とのこと。
 襲名披露公演は来年1月、2月、開場130年となる歌舞伎座の舞台。

 三世代が揃って同時襲名できるのは、三人共に健康でいるからこそできる、素晴らしくめでたいこと。




二代目松本白鸚襲名の挨拶をする松本幸四郎さん。坂田藤十郎さん。大谷信義松竹会長。




祝辞を受ける十代目松本幸四郎さんと八代目市川染五郎さん。







  「旦那さま〜!」と駆け寄って、強くハグしているような気持ちで両手で握手した。「良く来てくれましたね !」。
 心から「おめでとうございます! また新しい世界を! 」と大きな期待を込めてお祝いを申しあげた。

 もう、こころはサンチョ。
 このまま『ラ・マンチャの男』の続きを演じたい気持ちになった。







 2005年5月『ラ・マンチャの男』名古屋・名鉄ホール公演に向けて稽古に入る直前の3月に誕生した藤間齋ちゃん。お祖父ちゃんとなった幸四郎さんが「いっちゃんだよ! 」と喜んでいた笑顔を思い出す。
 齋ちゃんはこんなに立派に成長して今度松本金太郎から市川染五郎を襲名、お父さんの染五郎さんも十代目松本幸四郎を襲名。

 目に見える歴史を実感した。

 幸四郎夫人紀子さん、染五郎夫人園子さん、『ラ・マンチャの男』の舞台で長くご一緒した紀保ちゃん、たか子ちゃん、高麗屋のみなさんとのご縁に感謝した。







 お祝いには小泉純一郎元首相も。

 2002年8月19日、幸四郎さんの還暦誕生日と松本幸四郎主演『ラ・マンチャの男』1000回が重なった帝国劇場の舞台を観劇した当時の小泉首相はカーテンコールの幸四郎さんに客席から「感動した! 」と感想を言い、終演後の舞台袖で記念写真撮影。

 その時の思い出を話すと「サンチョか! 僕は、良くドン・キホーテって呼ばれているんだ」。大笑い。でも原発廃止は勇気ある主張。

 事実とは、真実の敵なり! 




2002年8月19日、松本幸四郎さんの還暦誕生日と主演『ラ・マンチャの男』1000回が重なった帝国劇場







 舞台で、テレビで、ものまね芸を見るたびに感心しているコロッケさんともご一緒できて嬉しかった。
 コロッケさんのものまね芸は、単に似せているだけのものまねとはレベルの違う、高度の人物表現だから感心する。

 役者が演技する時に考える役作り、役柄を把握し、拡大したり凝縮するデフォルメ、最後に仕上げる表現の繊細さ。そのすべての手本がコロッケさんの芸から感じられて、僕はいつも感心している。
 リアリティ、存在感のある面白さだから納得させられる。







 大広間に溢れるほど多くのお客様が詰めかけた盛大な祝賀会。

 我が旦那さま御一家のお祝いで、旦那さまに再会できて本当に嬉しかった。
 これも、元気で過ごして来られたからこそと、我が身の健康に感謝している。

 またの再会まで、今のトレーニングを続けて絶対元気でいる ! !

                   佐藤 輝 ☆彡 2017.12.2


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東京庄内会と伊藤善市先生 

 故郷・山形県庄内町出身者と縁ある人たちの1年に1度の集い、「東京庄内会」が曇り空から快晴に変わった19日に九段下のホテルであって、参加した。







 「最上川舟唄」を歌った。

 庄内平野の真ん中を南北に分けて、庄内町の北部を東から西に流れる最上川は山形県の母なる川。




思い出の歌の合唱ではステージに溢れるばかりの参加者が声を限りに思いのたけを声にした。今年は新規参加者が50人ちかくも増えたと喜びの報告をした幹事長も右端で控えめに歌っている。



 地元農協や企業などから提供されたお土産の抽選会があって、僕はJAあまるめ提供の大好物「杵つき丸もち」をゲットした。
 喜んでいるところを、昨年同様プログラムには何の記載もないのに、ステージに呼び上げられて「ご挨拶を !」との司会者からの要望。

 一瞬躊躇したが・・・、会を通じて皆さんに声を掛けて永く応援してくれた方だったのに、昨年の会で、会場に着いてから亡くなったことを知ってショックを受けた斎藤まり子さんのことを思い出した。

 この会には斎藤さんのように会のつながりで俳優・佐藤輝を熱く応援してくれている人たちが大勢参加されている。その人たちにお礼の気持ちを伝える機会は少ない。そうだ、それができる絶好の機会をいただいたのだとステージに上がった。







 皆さんには、次にお会いする時まで、自分を奮い立たせながら喜びを持って元気でいてもらいたい ! それが、最近の同時代を生きている人への僕の思いだ。

 その思いを込めたアカペラ2曲を朗唱。

 僕も出演した1987年に公開された森川時久監督の映画「次郎物語」で、母を亡くして沈み込んでいる幼い次郎に父親が励まして歌った「男は大きな河になれ」。さだまさしさんが作詞しスメタナの「モルダウ」を編曲した主題曲。

 松本幸四郎さんのドン・キホーテとコンビを組んだサンチョ役で484回出演した『ラ・マンチャの男』で歌われる「見果てぬ夢」。
 「夢は実りがたく 敵は多いけれど 哀しみを秘めながら 歩き続ける ! !」




ひと際目立って長身の原田真樹庄内町長。7月に4選されたばかり。町の進むべき方向が原田町長の双肩にかかっている。頑張って貰いたい。



 歌い終わって降壇しようとすると大きな声が客席から「アンコール ! !」
 続いて「最上川舟唄 ! !」の声。

 そうだった ! 「最上川舟唄 ! !」
 去年亡くなった斎藤さんからも「輝さんの最上川舟唄が聞きたいから会に来てるのよ ! だから歌ってよ ! ! 来年も来てよ ! !」と何度も言われていた。それが、斎藤さんの僕への励ましだった。

 『おしん』でも定次が筏を操りながら歌った「最上川舟唄」。

 「ヨーイサノマガーショ ! エーンヤコラマーガセ !」
 会場が盛りあがって体を揺らしながら力を込めた掛け声を掛けて、「まっかん大根のしょっ汁煮」からは盛大な手拍子に合わせて、顔を紅潮させて歌い終わった。


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上山温泉「日本の宿 古窯」女将から 

 高さ11センチ、直径10センチもあるずしりと重く実ったラ・フランスが、蔵王の麓・上山温泉から「親善大使」として遣わされて来た。
 「良縁感謝」の朱印と「感謝をこめて」の筆文字を添えて。
 遣わしてくれたのは「日本の宿 古窯」の女将・佐藤洋詩恵さん。







 女将とはある人に繋がるご縁があって、本当に一方的に応援していただいている。だから、ありがたい良縁に感謝しなければならないのは僕の方なのだ。なのに「感謝をこめて」の御恩返しができないでいる。

 女将とは、そのある人の告別式で初めて知り合った。

 そのある人とは、東京女子大学教授を務められた伊藤善市さん。

 伊藤善市さんに初めてお目にかかったのが、東京オリンピックがあった昭和39年秋の「東京余目会」。この会が9年前にできた現在の「東京庄内会」の前身の一つになった。
 昭和36年に、伊藤善市さんや僕の叔父・佐藤卯朔、斎藤まり子さんたちが、故郷を偲ぶ集いとして始めた東京余目会。

 その集いに故郷から小学校の恩師を呼ぼうということになって呼ばれたのが僕の父だった。

 上京した父と一緒に池袋温泉での東京余目会に出席して、当時東京女子大学文学部助教授だった伊藤善市さんに紹介された。
 伊藤さんは父にとって一番の自慢の教え子だったと聞かされた。
 それ以来、俳優を目指して修業に励む僕を、伊藤さんは何かにつけて「昭ちゃん、昭ちゃん」と声を掛けては支えてくれて、それにつれて余目会の他のメンバーも熱く応援してくれるようになった。
 伊藤さんは当時の政府の多くの審議会の委員なども務める多忙の中で、山形県内の地域振興や人的交流、自力創生のための有機的な連携を積極的に進めた方だった。

 昭和55(1980)年7月に僕がコンサート『演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』をABCホールで公演した時には、パンフレットに「庄内の風土と佐藤輝昭の世界」の一文を伊藤さんが書いてくださった。
 故郷を愛する伊藤善市さんの思いに重ねて、僕の履歴や故郷の風土を豊かな筆致で紹介していただいた、嬉しい文章だった。

 このコンサートは「舟唄」で開幕、「黒の舟唄」「バタフライ」「ティティーヌ」「パダンパダン」など演歌からシャンソンまで、それに「津軽じょんがら節」で始まった第2部『ふるさと庄内・夏の頃』では昔話を語り、鶴岡市から特別出演してもらった津盛柳太郎さんの庄内出羽人形を客席と一緒に楽しみ、最後は観客の掛け声と手拍子に盛り上げられて「最上川舟唄」を歌った。
 思い出に残る舞台を創ることができたと、今でも思い出す。

 伊藤善市さんは、余目会会長として会員をまとめては何度も公演を観に来てくださった。それは、伊藤さんが恩師としての僕の父に対する思いを僕に傾けてくださったのだと思われる。

 また、伊藤さんは、東京余目会のように山形県出身者が出身地単位で作っている故郷会をまとめた山形県人連合会の会長もされた。

 その時期、僕がメンバーの一人だった集まり、山形県人連合会にも参加している「芸能人山形県人会」が顧問にすえる人選について混乱していた上に、僕の叔父との関係も良好でなくなったために、不本意ながら伊藤さんとも余目会とも疎遠になってしまっていた。

 そんな時に、斎藤まり子さんから届いた伊藤善市さんの訃報。

 僕は、大恩人・伊藤善市さんに心から疎遠を詫びて許しを乞うた。

 その告別式が終わったところで紹介されたのが、上山から駆けつけた古窯の女将・佐藤洋詩恵さんだった。

 女将にとっての伊藤善市さんも、結婚によって山形の温泉旅館の女将という別世界に立った洋詩恵さんを励まして心を支えてくれた心からの恩師、大恩人だとのお話。
 その後に伺った女将の話から、その伊藤善市さんの励ましがあったからこそ、今ある、心からのもてなしの宿として知られる古窯に育て上げることができたのだとの気持ちが感じられた。

 女将の僕に対する応援は、大恩人・伊藤善市先生への御恩返しの一つなのだとありがたく理解している。
 伊藤さんが応援した佐藤輝さんも自分が応援すべき人なのだとの強い思いから僕を応援してくださっているのだと理解して、伊藤先生と女将とにつながるご縁のありがたさに感謝している。まさに「良縁感謝」! !

 あと3日。
 ラ・フランスが食べ頃を迎える。
 時々くんくんしながら楽しみに待っている !


             



演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』



1980(昭和55)年7月『演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』ABCホール公演




「庄内の風土と佐藤輝昭の世界」東京女子大学文学部教授 伊藤善市さん




1980年7月『演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』ABCホール公演




1980年7月『演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』ABCホール公演




1980年7月『演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』ABCホール公演
「バタフライ」




1980年7月『演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』ABCホール公演
「ティティーヌ」




1980年7月『演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』ABCホール公演
「パダンパダン」




1980年7月『演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』ABCホール公演
「パダンパダン」




1980年7月『演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』ABCホール公演
昔話語り




1980年7月『演劇的音楽会 唄う/語る 佐藤輝昭の世界』ABCホール公演
特別出演 津盛柳太郎さんの庄内出羽人形
 


             



芸能人山形県人会

 「芸能人山形県人会」は昭和39年当時、三国連太郎主演・内田吐夢監督の東映映画「飢餓海峡」に出演した米沢市出身の俳優・伴淳三郎さんが、その映画に余目町出身最上逸馬さん、朝日町出身鈴木昭生さん、鶴岡市出身大久保正信さんなど山形県出身俳優が多く出演していることを知って、みんなの親睦をはかろうと声を掛けて集まったのが始まり。

 「アジャ パー」を発し、バンジュンのニックネームで知られた名優・伴淳三郎さんが初代会長となって発足した全国初の芸能人だけの県人会として話題になった由緒ある会だった。



芸能人山形県人会懇親会 1987年2月28日
会長のシャンソン歌手・芦野宏さん、落語家橘ノ圓師匠、大先輩外野村晋さん、鈴木昭生さん、芝田陽子さん、連絡先を引き受けられた松岡弘子さん、渡辺白洋児さん、長い間事務局を担当された栗林恒雄さん、初代「ゴジラ」の中島春雄さん、などが参加された。後列左から3番目 佐藤輝。   




芸能人山形県人会懇親会 1989年10月21日
会長のシャンソン歌手・芦野宏さん、落語家橘ノ圓師匠、外野村晋さん、芝田陽子さん、連絡先を引き受けられた松岡弘子さん、渡辺白洋児さん、長い間事務局を担当された栗林恒雄さん、などが参加された。前列右端 天童真理子さん、後列右端 佐藤輝。  



 帝劇のミュージカル『マイ・フェア・レディー』公演に山形県出身出演者が3人もいると喜び合って、「山形県人会」と称しながら親睦会をしたこともあった。

 来週は酒田市のふるさと会が待っている。楽しみだ。

                   佐藤 輝 ☆彡 2017.11.28


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山形 レストラン パ・マル 

 北国から初雪の便りが聞かれるようになって、慌ただしく山形へ帰省。

 快晴の青空を背にした日陰に、ピンクの椿が。







 レストラン パ・マルが山形市に新規開店した ! !







 天童市で11年間「ビストロ パ・マル」として新感覚の個性あるフランス料理を提供してきた村山優輔シェフが満を持して新規開店した「Restaurant Pas Mal」







 外壁の白さとは対照的に、店内はぐっと渋く白と黒でまとめられた大人の雰囲気の洒落た世界。

 1階は村山シェフの研ぎ澄まされた感性と包丁さばきがシャープに躍動するキッチン、それを真っ正面から見ることができるカウンター席。
 2階は明るいガラス窓から前の通りも見えるテーブル席。シェフの弟・村山竜章さんがフロアを仕切っている。

 僕は1階カウンター席で、期待の、シェフお任せランチをたっぷりと楽しんだ。







 舌に、とろりっさらさらととろけるように、かすかな海の良い香りを運んでくれる「はまぐりの洋風茶わん蒸し」。

 う〜んッ ! 一発目はこう来たか ! うまい ! !







 一見、日本料理かと思わせながら、するっと躱して、意外な地中海の旅。
 じっくりと舌と歯とのどで味わう。味わう。







 ウニのコンソメジュレ ! !

 11年近く前に「ビストロ パ・マル」で初めて食べた時の感動がよみがえった、うんッ ! ! もぅ ! ! !
 これもとろける磯の香たっぷりのふくよかな味。







 顔がどんどん・・・・。







 このエビが入った香ばしい網の下には、ほっこらほくほく、身の厚い魚のソテェが、ボリュームたっぷりで。
 地中海をイメージしながら、ただただ口いっぱいの満足感、仕合せ感 !

 それにソースが美味いから、パンもぺろり。  







 これ? フランス産鴨モモ肉のコンフィ。

 味覚の旅は地中海からプロバンスの沼地へ。

 もう、何の言葉も出て来ない。
 しこしこじんわ〜りと微妙に奥深い味が出てくる歯ごたえの良さ。
 飲み込む時ののど越しの快感も。

 このソースも ! で、パンのおかわり ! !







 デザートはココナッツのブランマンジェ。

 たっぷりの砂糖を入れたエスプレッソの苦味がココナッツ味を引き立たせ、また、料理の味わいをリフレーンしてよみがえらせてくれる。







 ああ、極めようと追求する姿勢と求める感性と手の技と、それがこの一食に集約された究極の一皿 ! !

 村山シェフがこれからも更に技を極めて活躍の世界を広げて行くのは間違いない。
 次の機会も楽しみに期待している。

 山形行ったら、是非ともレストラン パ・マルへ。絶対お勧めです !


 思い出すだけで、口の中にあの味わいがよみがえって来る !




レストラン パ・マル Restaurant Pas Mal 問合せ・予約 070-1143-8080



 山形へ急ぎ帰ったのは、自動車のタイヤをノーマルからスタッドレスに履き替えるため。

 冬がそこまで来ているのに、秋の大イベントをまだupしていなかった ! 急がねば ! 間に合うかな?

                   佐藤 輝 ☆彡 2017.11.14



酒田ゆかりびと交流会 吉祥寺 

 11月3日。
 酒田市の姉妹都市・武蔵野市で1年ぶりの酒田市主催の会。

 丸山酒田市長をはじめ、田中商工観光部長、司会進行も担当した宮崎観光振興課長と多くの市職員、酒田北前大使など30名ほどが集まって酒田市の近況とこれからの行事予定などを聞き、故郷の「芋煮」を食べながら情報交換をして有意義な時間を過ごした。




丸山酒田市長と佐藤輝、高校の先輩後輩にあたる。



 僕は隣町・庄内町余目の出身ながら酒田市にある高校を卒業した縁で「酒田北前大使」という観光大使に前市長の時代から委嘱されている。

 丸山市長は前市長の急逝を受けて市職員から市長選に立候補して当選、それからは次々と新しい酒田市のあるべき未来像を打ち出して積極果敢に事業を進めている。
 その積極性が評価されて全国の活動的な首長の一人に選ばれたばかり。




左から田中商工観光部長、白崎商工会議所専務理事、丸山至市長、佐藤輝、宮崎観光振興課長。



 会の手締めは白崎商工会議所専務理事。

 田中商工観光部長が「酒田市独特の酒田手締めがありますのでそれでお願いします。」と酒田甚句「ほんに酒田は良い湊、繁盛じゃ、おま・へん・か」を歌いながら拍手をパン・パン・パンと打って手本を示してくれた。
 開場入口付近で様子を見ていた二人の女性職員が、正しくはこうだと手拍子。そこでこの二人が前に呼ばれて、正しい酒田手締めの手本を披露。
 そこで全員で練習をして、全員が納得したところで、目出度く酒田手締めで盛りあがって会を閉じた。 

 とても前向きで楽しい会に参加することができた。

 故郷が元気になって欲しいといつも願っている。
 何か手伝いできることがあれば協力を惜しまないと握手して、再会を約束した。

 地域文化の盛りあがるエネルギーが僕たちの未来への夢を大きく育んでくれた。
 酒田は古くから市民自治を基にした経済と文化活動で発展してきた、自由で開放された地域。
 地域住民の幸せのためにも、若者たちの将来への希望のためにも、あのエネルギーが今の時代に復興されることを切に切に願っている。

                   佐藤 輝 ☆彡 2017.11.5


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紺碧、白波、夏真っ盛りの庄内浜 

 くらげを堪能したゆったり気分で鶴岡市加茂の水族館から日本海沿いに北へ。







 途中、波打ち際の温泉で知られる湯野浜温泉を通過した。

 ここも矢張り、小学校の遠足で来たところ。
 大きな温泉公衆浴場に芋洗いのようにわいわいとにぎやかに入った後で、昼食に丸々と太った大きないわしが一匹丸ごと入ったみそ汁を食べた思い出がとても印象深く残っている。

 ずいぶん前に廃線になってしまったが、子どもの頃には、国鉄鶴岡駅から庄内交通の電車に乗り換えて湯野浜温泉にやって来たものだった。
 平野から善宝寺を過ぎると砂丘の松林を越えるのが趣があって好きだった。

 長じてからは、両親への感謝を込めて共に過ごした一泊もあったし、日本海からの波しぶきまじりの風の咆哮を一晩中聞きながら過ごした冬の庄内ロケのこともあった。

 温泉の集落から北、庄内砂丘の松林を貫く道を北へ。

 庄内空港滑走路下をトンネルで横切って間もなくの集落・酒田市浜中。
 安部公房の小説「砂の女」のモデルとなった砂丘の村。


 幼い頃から庄内浜の十里塚や由良の浜で家族とキャンプを楽しんだし、東京に住んでからも夏の帰省の時にはしばしば海水浴をした。そして、自分でテントを持った40年前からは、今は「浜中あさり海水浴場」と呼ばれているこの浜中海水浴場でキャンプをすることが多くなった。

 去年も一昨年も、この浜でキャンプをした。

 長期予報では3日続きの晴れ間があったので、今年もこの浜でキャンプと海水浴を楽しむつもりでテントを新調したのに、予定直前になって一泊二日ができる雨の降らない時間が予報からなくなってしまった。
 残念ながらキャンプは断念、水族館なら天気は関係ないと今日の加茂水族館見学になったのだった。







 それが、この快晴 ! !

 新調したテントは置いてきたけど、車にはサンシェードテントと折畳みフットレスト付きリクライニングチェアーがちゃんと載っていた ! それに水着も ! !

 そして着いたのがこの美しい紺碧と白波の浜中の海。

 今年の浜中の海は、子どもの頃に泳いだ庄内浜の海のように色鮮やかに蒼く澄んでいて、久しぶりに大きな白波が寄せていた。







 日よけテントの中の気持ち良さ。

 打ち寄せる潮騒が、風に乗ってテントの中を吹き抜ける。

 うとうとしながら、子どもの頃に家族と過ごしたキャンプ(あの時食べたもずくの酢の物が美味しかったこと)、
 兄貴たちが村の中学生たち全員を引率してリヤカーを引いて行ったキャンプ(世の中みんなが貧しい時代、おかずが味噌と梅干しだけだったこと)、
 テントから海までの間の砂丘が陽に焼かれて裸足の足裏が熱くて熱くて飛ぶようにして走ったキャンプ(登っても登っても足が引っ張られて登れない砂丘の高さだったこと)、
 村中の人たちが馬車に乗ってゆったりゆったり行ったキャンブ(みんなで地引網の引き上げを手伝って、お礼に分けてもらった小さな鯵を浜で焼いて食べた時の香ばしくて美味かったこと)、
 初めて買った大型テントでのキャンプ(70歳を越えた母も泊まって、初めて借りて着たヨットパーカーをとても喜んでいたこと)、
 兄貴ファミリーとBBQと花火を楽しんだキャンプ(三人娘と揃って夕暮れの海に入った兄貴夫婦の笑顔の嬉しそうだったこと)など、
65年以上も前からの庄内浜でのキャンプのエピソードを鮮明に次々と思い出していた。







 今年も、この浜中の海で故郷・山形の夏を体いっぱいに感じることができた。


 天気予報に出ていた数10%の降水確率はどこかへ消えた。


 夏の青空に夏の雲が立った庄内平野を朝来た道を走って生家の菩提寺へ墓参り。両親と兄嫁に、お蔭様で無事でいることを報告。







 2年前に亡くなった6つ年上の兄貴の墓にも墓参して、丁度お盆帰省していた三人姉妹とその家族と一緒に、浜中キャンプの思い出などを語り合った。







 この兄とは子どもの時から、本当に多くの思い出につながる時間を共に過ごしてきた仲だった。

 上京するたびに故郷の酒や米などのお土産を両手に下げてわが家に寄ってくれたし、ファミリー旅行の途中にも家族みんなで立ち寄ってくれた。

 1990年台からは僕が出演した舞台の多くを、東京はもちろん、遠く大阪までも夫婦で観に来てくれた。
 そこで初孫誕生の知らせを受けて、お祝いの乾杯をして喜び合ったのもついこの間のことだったように思い出される。

 それらの舞台公演の思い出として、兄は自宅の玄関ホールの壁一面に公演チラシを貼っていた。それを毎日ながめながら、兄は僕の活躍を願ってくれていた。

 初めてその様子を見た時、これだけの枚数の多いボリュームとそれを一枚一枚手間をかけて貼ったであろう兄の思いやりの深さに僕はのけ反るほどにびっくりし感動した。







 兄が急逝してあっと言う間に過ぎた2年、兄の思いを受け継いで壁に貼られたチラシをそのままにしてくれている兄嫁にも心から感謝した、今年の夏。

 今年は天候不順で叶わなかったが、また、兄嫁と三姉妹ファミリーと一緒にキャンプをしたいと思っている。



                 



 2017年夏の〆(しめ)は、住んでいるマンションの夏祭り。

 自治会役員になっていても中々顔をだせないでいたが、この日は何とか参加できた。






 生ビール、かき氷、ポップコーン、焼きそば、焼きフランクフルト、それに僕が担当したお楽しみ袋。

 このお楽しみ袋は、子どもたちがを抽選して引き当てた番号の付いた駄菓子を詰め合わせた袋をもらえると言うもの。

 番号が出ると、何番が出ても明るく声を張り上げて「大当たり〜ッ ! !」
 続けて手拍子に合わせて「ヨヨ良い ! ヨヨ良い ! ヨヨ良い 良いッ ! !」と手締めして お楽しみ袋を渡した。
 これに子どもたちは大喜びになり、1年生が4人も店側の手伝いに入って来て更に盛り上がって、楽しく幕を閉じた。

 片付けをした後の役員打ち上げで、会長が役員に馴染のない僕を皆さんに「俳優の佐藤さん」と紹介してくれた。
 あらためて自己紹介した後、俳優と紹介された手前、「ラ・マンチャの男」について話し、「見果てぬ夢」をアカペラで朗唱した。

 皆さん、一瞬静寂の後、大きな拍手をしてくれた。
 僕がサンチョを演じた「ラ・マンチャの男」を観たという役員は「感動して鳥肌がたった」との感想。

 役員打ち上げも盛り上がった、気持ち良い夏祭りの〆だった。

                   佐藤 輝 ☆彡 2017.10.29


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